飯沼村枝村大野村

129 ~ 130 / 922ページ
阿木広岡の郷土研究家鷹見紀義氏のまとめられた「阿木村広岡地人誌」に、「右衛門平ニ付キテ里伝ノ一」として「寛文三(一六六三)葵卯年八月十五日湯立ノ時聞候 土岐明神社ヲ尋ヌルニ土岐ノ一城大膳太夫頼範 天文九年(一五四〇)落城トナル 其ノ時一門之内ニ土岐右衛門祐頼常アリ 戦死シタル者ノ首ヲ持セ 其ノ身ハ馬ニテ乗リニゲ給フテ大槙平ノ水尻洞ニテ母衣ヲ捨テ安気野ノ森ニ入テ御身ヲカクシ給フ 此ノ母衣ヲ捨テ玉フ処ヲ今ニ母衣ノ田ト云フ 彼ノ森ノ東ノ方 山ノ麓ニ骨ヲ納メテ 土岐明神ト祭ル年ヲヘテオワリ給フ 家来ノ者ハ土民トナリテ年月ヲ送リ給フ……略……」
 また巖邑府誌に「右衛門平原ハ大野原中ニ在リ 伝ヘ言ク遠山右衛門佐ト云フ者 落魄シテ居ス ……中略……其傍之地牧野原ト名ツケルアリ 或ハ言フ 右衛門此コニ牧馬スル也ト」とある。
 両者とも伝えきく話であって、事実の断定はできないが、土岐氏か遠山氏かとにかく右衛門なる武士が戦国期に大野へ入って、その一門と共に大野の開発をはじめたと考えることは無理なことではない。
 このようにある村内でありながら、開発から集落への歴史が異なる場合で、本郷からはなれている地理的条件が付着したとき、枝村(支郷)が発生する。枝村はこうして出来あがってきたものが、太閤検地で認められたものと、江戸初期における大名の内検によって認められたものとがある。