それでは「実戸村」「この村」などといっているのは、枝村ではないかということであるが、この点について、阿木村、中津川村のような千石以上の大村を一円支配している場合に支配者は年貢徴収上から、農民は生産(用水・入会地を含む)と生活の仲間組織上から集落を一つの基礎単位としている。
阿木村の元禄一六年(一七〇三)の差出帳には、「真原(さなはら)」「大根木」「藤上」など一六か所の集落別に高、石盛別田畑の面積、その米及び免取り年変化をくわしく報告している(市史・中巻別編)。文久二年(一八六二)の「戌御物成免盛取帳」という大根木の文書があるが、これをみると新田分を入れて、大根木一七名の農民の高、年貢分、町払、伝馬、川除米入などのすでに出した分、差引分などをくわしく合計して、小村として六一石余を出したことにしている。
このように大村では、年貢徴収に小村(集落)があたり組頭(村役人)がとりしきっている。この集落のことを「むら」といっていたことは、その開発、用水、共同山など生活共同体の立場からも考えられる。そしてその中心には神社があった。
前にあげた阿木村差出帳の寺社の報告の項(市史・中巻別編)「枝村野田村 三嶋大明神社五尺四面 籠り所たて三間よこ二間、森たて三〇間よこ二〇間 竿除地」のように小村ごとに記載されている。これは阿木村のような大村を構成する基礎単位としているものであろうが、独立した枝郷という性格ではなくいわば通称であろう。
江戸時代の始めよりの枝郷(枝村)は「中新井村・辻原村・岩屋堂」「大野村」「川上村」がそれにあたることをまとめた。江戸時代に入ってから新田開発によってできた枝村もあるので次にあげることにする。