新田開発

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太閤検地以後に山林原野を開発して田畑にしたところ、または荒地を切起して田畑にしたところを新田、新畑という(太閤検にでている田畑=古田、古畑)。幕府、大名はともに財政を豊かにするために、そのもとであるところの耕地の増加、つまり新田開発には力をいれた。そのために堤防をつくり、用水路をつくるなどの大きな工事も行われ、全国的にも耕地は増加していった。
 開発の場合のかたちは、①知行主の許可をえて、資金負担も個人あるいは一族で開発する場合。②幕府、知行主が資金を出し、指揮者を任命し参加者を求めて開発する場合の二つの形が市内関係地域には多い。しかしこまかく見ればその形は村むらで異なる。
 こうしてできた地域は、年貢を三年間免除しその後見取年貢を課し、検地を行ってから新田畑として正式に年貢を課していき「新田」として枝村扱いになっていった村むらが枝村として成立していく。これらの中で知行主の許可を得て個人或いは一族で開拓した村の一例に、阿木村の新田枝村である青野村と両伝寺村がある。
 一 高 弐拾五石九斗二升七合三勺二才  青野村
 一 高 拾六石壱斗六升弐合六勺六才   両伝寺村
 この高でわかるように、こういう形式の新田村は小規模にならざるを得ないが、その開拓認可の特殊性を主張して、枝村としての地位を守り続けている。
 青野村は現在阿木川ダム建設によって、水没地区に計画され湖底に沈む地域で、三六〇年近い歴史を閉じようとしている。地形的には飯羽間川(岩村川)と阿木川の合流点より阿木川に沿ってのぼった最初の段丘上にできた五戸の「むら」である。
 青野村の開発は、寛永元年(一六二四)当時の岩村領主松平和泉守乘壽に願い出、初年は伐採をし、二年目より追々切り開き 五年目に青野一円を切り開き、数反歩の田をつくりあげ、苗代田は隣りの野田より借りて植付け、この喜びをこめて「青野村」と名を付けたという(第四章第一節新田開発)。
 両伝寺村は、阿木川支流不動川から取水し用水路をつくり開かれた枝村で、現在阿木四六九八番地の今井氏の所有田の中に墓のある荻野平右衛門が中心となり開発した。
 荻野平右衛門は、岩村領主松平和泉守の家来であったが、この地を開き、寛永九年(一六三二)四月七〇歳で没している。

Ⅰ-34 青野村風景

 この青野、両伝寺の両枝村が開かれた当時の領主は松平氏で、その後丹羽氏にかわり、この丹羽氏も元禄一五年(一七〇二)に国替えを命ぜられて去り、信濃国小諸より松平能登守乘紀が岩村領主となって入城する。
 この時点で青野村、両伝寺村の両枝村に対して、開発の由来がわからない新領主は枝村としての免定でなく、本郷阿木村の中に両枝村分を含めた免定とした。驚いた両枝村の村役人は代官所へ「元の如く青野村 両伝寺村地方分立(じかたぶんりつ)被下様」願いでた。
 この記録が青野鷹見家文書の中に残っている。新田枝村についての珍しい記録であるから抄録することにする。
 
       御得替之節御願申上候覚書
 一 (省略)
 一 午年(元禄一五壬午年)御免定ハ能登守様(新領主松平能登守乘紀)より御出し遊され候 勿論青野村先御代 御免定写等入(れ) 御披見ニ申候処 午年御免定ハ阿木村御免定の内江御書込下され候ニ付御免定御渡成され候節 青野村 両伝寺村江御免定御渡し成されず候ニ付 弥平次(青野村役人)申上候ハ 青野村之義丹羽様御代より地方分立ニて青野村江一分(わけ)ニ御免定下シ置かれ 御年貢上納仕候 御蔵も青野村ニ御座候処 青野村江ハ御免定下し置かれず候哉と御代官大山文右衛門様江申上候へば 又八郎(両伝寺村役人)申上候ハ両伝寺も 青野村同様の処にて御座候段申上候処「初めて義(代官の言)(転封後最初の年貢徴収)不案内間違ニて阿木村御免定の内江御書込被下候」段仰聞られ候ニ付 重ねて委細御願申上可きかと申上(げ)置き帰り申候 其以後両伝寺村又八郎同道ニて罷り越し両伝寺村は松平和泉守様御代 荻野平右衛門様御開発之所ニて御座候 青野村は松平和泉守様御代 私共先祖弥左衛門と申者切起申候処ニて 諸役御免許之所ニて 御検地之節より水帳所持仕候御免定一分(わけ)に被下置 御年貢取納御勘定仕上等一分(わけ)に仕来り 阿木同村ニては御座無き枝郷ニて地方分立之所にて御座候間 先規の通仰付下し置かれ候様にと委細申上候処 御代官様仰聞けられ候ハ水帳其村に所持いたし御免定の面も分立に相具へ ことに郷蔵其村ニ有之由ニ申候ヘハ分支配に相聞之候 然共(阿木村の)差出帳面ニ青野村両伝寺村共ニ分立の訳之無く ことに青野村両伝寺村ニ役人の訳も無之 其方共茂阿木村組頭の内にて連名に致し 印形差上候ハ如何いたし候哉と仰聞けられ候ニ付 私共義 か様の御取替(領主交替)ニ出合候義御座無く不案内ニ御座候  殊に一向無筆(無学)ニ御座候故 諸事前の通よろしき様ニ成され給りたき段阿木村役人中江相頼候処 成程先規の通り有来り候訳ニ差出帳面相認差上可申旨仰付られ候間 其村も一帳に書上申す可候段申され候 其後差出帳面相認候間差上可申候条印形いたし候様ニ申され候故 私共村の義先規の通に御書戴下され候哉と申談候処 前々の通ニ書戴候旨申聞けられ候 勿論右申上候通無筆故 阿木村役人中申され候通相違之れある間敷く存じ印形仕候 私共阿木村組頭に書上申され候儀は曽て存じ奉らず候 只今仰聞けられ候ニ付 初めて承知仕候段申上候得共 御代官様仰聞けられ候は 其方共申立候趣相違無之様には相聞え候得共 差出帳面ニ相違候へば 阿木村庄屋同道致し罷り出候様ニと仰付られ候ニ付 其節阿木村庄屋善吉へ罷り出 右之訳申談岩村へ御越給る可く候段相頼候処 用事有之故 得参り申間敷き段申され候故 其後毎日五度ニ及び 今日は御出給る可き旨申候処 今日も用事有之得参り申間敷くと申され候ニ付 左候ハバ私今日御代官様へ罷り出 毎日阿木村江罷出相頼候へ共 用事有之由にて参り申さず候段申上可く候間 左様ニ御心得成さる可く候と申候へば 左候ハバ用事も有之候得共罷出申す可く候と申され候ニ付 岩村御同道致し 御代官様へ参上仕候処 御代官様阿木村庄屋ニ仰聞かせられ候ハ 青野両伝寺ハ阿木同村ニてはこれ無く枝郷にて両伝寺村は松平和泉守様御代荻野平右衛門様御開発の所、青野村ハ松平和泉守様御代 弥平治先祖切起の所にて 先規より諸役御免許の所にて 地方分立にて分支配の由申立候 ことに御免定も其趣ニ相見へ水帳所持致し郷倉も有之由に候 右両村申立候通り相違無之候哉と御尋ね成され候処 阿木村庄屋善吉申上候は仰聞けられ候通相違御座無く候(と)申上候得ば 御代官様仰聞けられ候は 然れば差出帳面ニ其通り相認め差上申す可き旨仰付け置かれ候処 其義無く相違の義相認め差上 不埓の義ニ候段仰聞けられ御呵り成され青野村両伝寺村申立候通 其方申口相違無之候得ば村方の義先規の通仰付らる可く候条 其段相心得申旨 阿木村庄屋江仰付られ候 青野村両伝寺村へ仰付られ候は村方の義 惣て先規の通仰付られ候間左様に相心得可申候 午御免定の義は阿木村御免定の内え御書入下され 御年貢寄申し御印形成され御渡し成され候事ニ候へば書直し候儀相不成候間未年(翌元禄一六年)の暮より先規の通り別ニ御免定御渡し成さる可く候間 左様心得可申候 午暮(元禄一五年)分は御免 定相書写し遣し申可く候条 取納め可仕旨仰付られ御免合御取箇御代官中様御連名にて御書付下され相済申候
 
 青野村と両伝寺村の村役人が、開発のいわれ、免定は阿木本郷とは別口であること、年貢を納める郷倉をもっていることを申立てて枝村であることを新しい領主の代官にわかってもらうために懸命に粘っている様子がよく分かるし、間違い書上げ差出しをした阿木村庄屋が、青野両伝寺村役人が岩村へいって代官に枝村だと言ってくれと頼まれ、あれやこれや理由をつけて行きたがらないのを数日間毎日粘られてしぶしぶ岩村の代官所へ行き、枝村であると言って代官から枝村と知っていながら差出帳にそれを書かなかったのはどうしてかと叱られるところなど当時の村役人の動きがよく分かる。青野村の免定に=美濃国恵那郡岩村領阿木村枝郷青野村という正式名が示すように、これから後幕末まで枝村としての地位を両村とも持ち続けるわけであるが、新しい負担(例えば後述する琉球人通行、朝鮮人通行の負担、領主が郡上八幡城取り納め役を命ぜられた時の負担など)問題のたびに「新田枝村」で諸役免除を主張しつづけて枝村を守っていることは注目しなければならない。実際に青野に残る絵図には郷蔵が示されているし、明治初期作製の阿木村絵図には、青野の郷蔵、両伝寺の高札場などが記入されており枝村の証を示している。