阿木村には、青野村両伝寺村の他に新田枝村がまだ二か村ある。それは福岡新田と広岡新田である。新田開発によって生れた新しい集落の村々であって、枝村としての性格は青野村と同様である。福岡新田のことはよく分からないが、広岡新田については元禄の差出帳もあり免定も残されている。
恵那郡岩村領阿木村枝郷 阿木村新田高弐百九拾八石弐斗五合弐才之内
一 高百五拾八石九斗六升八合五勺八才
の新田枝村として幕末にいたっているが、この村のはじまりは元禄一六年(一七〇三)に飯沼村枝村大野村と阿木村との間の境界争いについて領主丹羽氏の役人が裁断を下し、新田のみをもって阿木村枝村広岡新田としたことである。
阿木村は一三〇〇余石の大村で、四か村の枝村をもっていることは岩村領主が新田開発に力を入れたことのあらわれであろうが、管理上順次本郷に合するコースを通らなかったのは何故だろうか、第一には前述したように領主交替時に枝村の確認を得、それを維持しようと努力したことにもよるが、用水かかりで本郷と対立する必要がなかったことにもよるのではないかと考えられる。
[参考] 「方県郡則武村之内 同新田之儀 内訳ニて村高相分候処 千種清右衛門殿支配之節 新田百姓共別村ニ相成度旨願出本村と出入ニ及候ニ付吟味之上伺相成候処 別村ニは不相成 郷帳ハ前々之通取計 割附は則武新田と内訳ニ認 本紙は本村え渡置 本村より写し新田え相渡し皆済目録 宗門帳 五人組帳 村小入用帳等ハ別に差出候筈 其外夫食種貸 御普請人足扶持 又ハ小役掛物等都て勘定金ニ抱候義は引分取計 検見之儀も別々にいたし候様ニ相成候旨申送りに御座候」とあるが、これは幕府領則武村[岐阜市]の内新田集落が枝村にと願出た時、代官所で処置した記録である。これでも分かるように表向きは則武村であるが、実質上新田は枝村の取扱いである。このような形の枝村は幕府領といわず大名領といわずかなりあったのではないかと考えられる。