関ヶ原戦後の美濃直轄地の管理及び経営に、家康は腹臣の大久保石見守長安を起用して、代官頭美濃国奉行に任命した。長安は卓越した理財と開発の才を家康にかわれて任命されたというが、岐阜に陣屋をおき一四年間在職した。長安は秀吉時代の支配体制のすぐれたところは生かしながらも幕府体制つくりとして、木曽山、木曽川、飛驒川水系の一括直轄支配体制つくりを推進し、山村道祐を木曽代官に起用した。もっとも尾張徳川家創設とともに木曽山と木曽川水系は尾張領に移されていった。また長安は美濃国が関ヶ原戦後ほとんど改易されてしまったので、検地担当者として総奉行となって美濃国内と近隣の諸大名を動員して検地を実施した。この長安の検地は「石見検地」と呼ばれ、慶長一四年から一五年にわたって行われたといわれ、苗木領内の貢租に影響を与えている。
さらに中山道大井~御嵩(みたけ)間で大湫コースを定めたのも彼であった。