慶長一八年(一六一三)長安は病気して、実権は岡田将監善同に移った。将監は筆頭代官となって美濃奉行を継承したわけだが、この頃より直轄領は幕府勘行奉行の支配下となり、勘定奉行直属の郡代が幕府より派遣されるようになり、中央の支配権が強化された。
岡田将監父子について若干ふれておくと、まず織田信長に仕え、のち加藤清正に従って加藤姓を称したこともある。関ヶ原戦では東軍に属し、慶長六年(一六〇一)六月、五〇〇石を与えられて可児郡姫郷に住んだ。同一〇年からは、大久保長安配下の代官を勤めた。従って、東濃地方の幕府領は彼の管理下にあった。当時大井には、名古屋城築城の際の材木番所があり、木曽材採出奉行として、常に当地方に駐在していたようである。
このことを「濃陽志略」に「往日此地大井築レ館令三軽卒将一員居レ之監二材木事一 近時廃レ之」と記しているし、又満足和歌集によれば「その夜、大井の里にとまる。此所は慶長の末つかたまでは、伊勢の翁(岡田善同は寛永六年伊勢山田奉行を兼任して伊勢守に任じていたからそう呼ばったのであろう)の預所にて……」と、善同の子岡田善政が記している。
「恵那郡史」には、坂本村千旦林に岡田将監の墓と伝えるものが、同地三ツ屋地内にあって、旧中山道の北の一小丘で五輪の石塔(実際は宝筐印塔)が建っている。これを「シャウグン塚」と呼んでいるが、将監塚の訛伝であろうと記されているし、あわせてこの付近に将監乗馬の塚というのがあり、地名を岡田ヶ峯ということも記されている。
寛永八年(一六三一)釆地替えにより、揖斐に移ったが、同年善同は病死し、善政があとをついだ。善政は正保元年(一六四四)美濃国絵図、郷帳の調製にあたり、加納城主戸田丹波守光重、大垣城主戸田氏鉄とともに幕命により、翌二年調整して幕府に提出した。