元禄一五年(一七〇二)岩村城主丹羽氏音が、山村瀬兵衛の一件で政務怠慢のかどにより、岩村領二万石を召し上げられた。この時の様子を阿木村枝郷青野村の鷹見家文書によれば、
七月二七日城請取のため 江戸より御目付榊原八兵衛 斎藤次左衛門 笠松代官辻六郎左衛門 南条金左衛門(共に美濃幕領代官) 飯田城主堀大和守 苗木城主遠山和泉守御着 御城相違なく御請取成され 堀大和守様は大井宿迠御帰り 遠山和泉守様は八月二日御帰城成られ 苗木御家中衆[苗木遠山氏家臣衆中]が残って御在番なされ 夫より岩村領は一時御料所(幕府領=天領)となり申候て 御代官中様より諸事の御仕置仰付られ候……中略
午(元禄一五年)の御検見の儀は両代官様[幕府美濃代官で辻・南条両氏]御廻り成られ候 御泊 辻六郎左衛門様は飯沼村 南条金左衛門様は阿木村萬岳寺に御泊り成られ候 其後坪刈の御手代衆御両人御廻成られ候 同九月御料所は御代官より新田畑御改に付吟味書付差上申候処 水帳御渡成られ候
合田 七畝九歩 合畑 六畝歩
元禄一五年午九月
南条金左衛門内安富仲右衛門 印
辻 六郎左衛門内岡 才兵衛 印
とあり、南条金左衛門則弘は、当時方県郡岩野田村岩崎陣屋代官、辻六郎左衛門守冬は笠松陣屋代官であったが、岩村城請取からこの年の検見まで阿木村、飯沼村はじめ岩村領全体について実施したと考えられ、岩村領は一時幕府直轄として美濃代官が支配し管理していたことがわかる。この期間は三か月程の短い間であったから美濃代官をして臨時に支配させたのであろう。