「元和元年(一六一五)御代官塚田伝右衛門様は、阿木村寺領に被成御座候」(青野鷹見家文書ほか)とある。
同じようなことは川上村にもあって、慶長六年-寛永一五年(一六〇一-一六三八)頃「御陣屋」と呼ばれる代官の出張所があったようである。
丹羽氏の治世(寛永一五年より)になって、寛文三年(一六六三)「代官西山八左衛門 村奉行梅村七郎左衛門 同前田清兵衛」(鷹見文書)とある。同じ記録によれば、寛文六年(一六六六)大洪水代官見分に村奉行樋田角太夫の名がある。同八年秋検地に代官小栗長兵衛、奉行樋田角太夫の名がある。以下同記録の代官に関係する分をあげてみると、
寛文一二年(一六七二)代官堀井次右衛門、東野村へ 延宝三年(一六七五)東野村代官森部儀右衛門
天和元年(一六八一)代官鈴木与治右衛門 元禄七年(一六九四)代官西山弥市右衛門、東野村へ
丹羽氏から松平氏になっての享保一〇年(一七二五)には、阿木村、飯沼村山論地御見分御出の方々に御用人一人、大目付一人、郡奉行大山文右衛門、宇野安太夫、御代官市川与左衛門、山奉行二人御手代、下目付などがしるされている。
元文五年(一七四〇)の岩村領家中分限帳により代官を摘記すれば次の通りである。
横内代官 山水奉行兼 比企忠蔵
西美濃代官 小林太郎兵衛
同 渡辺源内
岩村代官 佐嶋小八
同 豊田与八郎
同 金井源五郎
同 小泉武助
横内代官 山水奉行兼 広瀬伊左衛門
(横内=駿河国志太郡横内村陣屋。西美濃=美濃国安八郡北方村陣屋)
文政一二年(一八二九)岩村表(家老丹羽瀬清左衛門)によって、武士としては異例の家禄、名字、帯刀を取上げの上で死罪になった阿木村などの代官橋本祐三郎は、村支配不行届の理由で処刑になったのであるが、彼の父は郡奉行であったから代官→郡奉行のコースで、領内の地方支配に従事することになっていたものであろう。
地方支配の中心は、年貢上納であるから、代官の仕事もこの年貢上納に関する連絡、通達、請収、指示などが重要なものである。これらに関係ある文書には、農作業の進行状況を代官に知らせる御注進をはじめ、中勘定(御蔵へ納入したことの知らせ)の覚、皆済目録、拝借米覚、役所の年貢請取の覚などがあるが、すべて代官名がでてくる。元文年中から文化三年(一七三六-一八〇六)にかけての代官名をこれらの文書からひろいあげると、
元文元年 青嶋五郎右衛門
同 四年 神田太左衛門
宝暦八年 平野孫右衛門
宝暦一四年-明和六年 吉田紋次郎
安永三、四年 今井宗右衛門
同 五年 吉田紋次郎
同 七年 平尾平蔵
安永八年-天明二年 磯貝長十郎
天明二年-四年 田中三蔵 臼井久吾
天明五年-寛政二年 遠山円右衛門
寛政三年-九年 茂原平次郎
享和三年-文化三年 梅村弥五右衛門
などがあがってくる。