翌二年、加茂郡太田村[美濃加茂市]に太田代官所が置かれ、その支配区域は美濃国加茂郡、恵那郡、土岐郡、各務郡、武儀郡、可児郡内の尾張領一三〇か村 惣高五六三〇〇余石、内蔵入地三七六九〇石、給地一八六九〇余石であった。
この天明の改革後、蔵入地、給地とも当地方の尾張領は太田代官所の管轄下に入ることとなった。しかし山村、千村両氏の年貢は当然、彼らのもとへ納入しており、全面的に代官所が支配したわけではない。
寛政二年-四年(一七九〇-一七九二)尾張領太田代官所下役人構成及び人員は、手代四名、手代並二名、足軽三名、小使一二名、足軽は同心と同五年に改めている(徳川林政史研究所紀要)。
代官所には、代官をはじめ手代、同心の住む屋敷も作られ、その附近には代官所へ出頭する領民の食事や宿泊のための郷宿も設備された。さらに寛政六年(一七九四)領内管理担当の国奉行と財務担当の勘定奉行を統合して、地方勘定奉行として機構の簡素化がはかられた。