尾張領となった木曽については山村氏が幕領以来の代官であったが、寛文五年(一六六五)上松に尾張領直轄の材木役所を設置した。
山村氏七代甚兵衛良及(たかちか)の時である享保九年(一七二四)に「近年木曽谷中裁許の儀よろしからず」の理由でもって、尾張表では福島上の段に御用達役所を設置し、木曽の行政一切を尾張側役人と立会裁許を指令してきた。これによって木曽代官としての山村氏の木曽支配権がいちじるしく抑制された(参照第四節領主の系譜)。
このときまで木曽の村むらには山村氏私設の代官が置かれていた。この代官はもちろん山村氏の家臣が任命されたが、その村の庄屋と山村氏との間にあって、主として年貢の収納に関する事務で、米年貢、木曽独特の木年貢の収納及び、木年貢に対する下用勘定の責任者となって山村家に対して、その出納の明細を報告しなければならなかった。
代官に対しては、山村氏からは別に手当はなくて年貢の一部を「口物」といってその入用に当てさせ、別に村民から代官への納物及び「椀飯」といって薪、穀類その他のものが納められたという。
元文五年(一七四〇)上の段役所が単なる材木役所となって上松へ引揚げ、山村氏の谷中支配権が旧に復した。山村氏が代官としての木曽支配権を制限されていたのは一七年間であった。
その後は山村氏の木曽代官には変化なく、明治維新に及んで明治二年(一八六九)名古屋藩は福島に木曽総管所を設置し、用人吉田猿松を総管に任命して興禅寺に仮役所を置いて事務を執ることとなり、山村甚兵衛は立合としてこれに参加した。
版籍奉還の直後は藩県分治の制によって、木曽は美濃国内の尾張領と共に名古屋藩に属したが、明治四年七月廃藩置県により名古屋県となり、その所管に入った。その後伊那県に移り、一一月には南信濃と飛驒国よりなる筑摩県が設けられて、その所管に入った。
[参考]山村氏は明治三年六月笠松県貫属となり、米一四二石五斗を支給され旧領地中津川元代官詰所へ移転した。