村代官と村分(むらわけ)代官

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山村氏の代官制実施年代は不明であるが、慶長に領地拝領後まもなく設置されたものであろう。慶長七年より元和に至る代官人の儀は旧記に見当り申さず候と寛永六年の山村留帳にあり、また米一〇俵を井口伝右衛門に相違なく渡すようにと山村甚兵衛より、中津川の市岡長右衛門あての書類があって「長右衛門 中津川代官相勤候と見え候これ以前何年より仰付られ候哉」と記されていることから推定して、江戸初期においては木曽と同様に各村に、「村代官」をおき、大きい村には「村分(むらわけ)代官」をおいて処理させたようである。
 木曽古事談によると、
 
        市岡長右衛門
 右者慶安元子年より寛文四辰年(一六四八-一六六四)十七ヶ年 中津川下町幷中村 薄野(すすきの) 川上之分代官(村分代官)被仰付相勤候 御委細皆済表前条々御座候[傍点は筆者]
 
 とあり、村分代官が存在したことがわかる。さらに
 
        宮川半右衛門
 右者正保三戌より明暦三酉迠(一六四六-一六五七)一二ヶ年中津川 落合 手金野 千旦林四ヶ村代官と見候
 
 とあり、中津川の「村分代官」市岡長右衛門と「四ヶ村代官」宮川半右衛門がいたことがわかる。また寛永一八年(一六四一)五月伊那の高遠領の高次源兵衛より、落合村へ欠落(かけおち)男女の事について宮川半右衛門、中村吉右衛門に来状があった。この時宮川、中村の両人は落合村の山村方(宮川)、千村方(中村)の代官であった。宮川は中津川代官を兼ね、中村は千村領である駒場村の代官を兼ねていたわけである。
 以上から代官宮川半右衛門在勤中である年に、村分け代官市岡長右衛門も在勤中であることがわかる。
 慶安四年(一六五一)九月、尾張国追放者を中津川にて召捕りの際の代官は丸山久右衛門と市岡権兵衛(市岡長右衛門家)とあり、少し前の寛永二一年(一六四四)には、代官として井沢藤右衛門、丸山久右衛門の名が見え、また万治元年、同二年(一六五八・九)の両年には、丸山久右衛門、堀尾作左衛門の名前もある。
 手金野吉田家記録によれば、吉田作太夫成定が慶安、承応年中に中津川の代官をしていたと記されている。このように、市岡長右衛門以外にも村分け代官を勤めた者はいるが、いずれも土着の有力者(地侍)か、帰農した武士などである。
 江戸時代初期の地方支配体制がまだ不十分な頃はこうした地侍などを登用し、支配の円滑化をはかったものであろう。