代官宮川と代官市岡

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前記したように宮川半右衛門が中津川代官として勤務中に、村分代官市岡長右衛門が勤務しており、その年代を表にしたのが、Ⅰ-35表である。

Ⅰ-35 宮川代官と市岡代官の勤務年代表

 この両者の関係はどのようであったか、①市岡代官の上司に宮川代官がいたと考えられるし、②市岡代官の所管以外で一色、上金を山村家臣黒川藤兵衛に知行地として与えているから、それ以外の中津川村の内とそれに加えて落合、手金野、千旦林の三か村を宮川代官が受持ったとも考えられる。この②の方が真実に近いのではないかと推定される。
[付1] 山村甚兵衛の石高は一万石未満であるが、江戸時代初期には家臣に知行地を与えたらしい。同じものに千旦林村内の山村領一二五石のうち一〇〇石を家臣の山村喜左衛門に与えている例がある。また千旦林には枝村(辻原、中新井)があるが、これを茄子川村の山村方代官の安田作十郎が正家、岩屋堂とともに四か所の代官として兼ねていたといわれる。
[付2] 丸山久右衛門は天文一六年(一五四七)木曽氏の伊奈、高遠撤退の時千村内匠の従者の内に名前があり、その後、所々の戦にその名がでてくる。その後木曽氏は関東へ転封させられるが、関ヶ原戦後山村・千村両氏に与えられた同心知の中に丸山久右衛門の名前がある(市史上巻)。