寛文頃までの中津川代官名

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いずれにしても、寛文二年(一六六二)に福島役所より桑原勘兵衛が代官として派遣されるまでは土着の者を代官に任命して、領内支配の確立をはかった。こうした土地の事情にくわしい者を代官としてこそ領内の維持ができたということは、何も山村氏のみでなく江戸初期の各領にみられるところである。
 こうして一応領内行政のしくみが整ってくると、年貢増加という点から積極行政(新田開発など)が必要となり、派遣代官がはじまる。その初代が桑原勘兵衛である。ここまでの代官名をあげると次のようである。
 ○寛永六年(一六二九)市岡長右衛門 (請取米の文書にて)
 ○寛永一八年(一六四一)宮川半右衛門 (落合代官にて中津川代官兼務-高遠領内より欠落人文書)
 ○寛永二一年(一六四四)井沢藤右衛門、丸山久右衛門 (知行所書上)
 ○正保三年-明暦三年(一六四六-一六五七)宮川半右衛門 中津川、落合、手金野、千旦林四か所代官 (安田作十郎が茄子川庄屋兼代官)
 ○慶安四年(一六五一)丸山久右衛門、市岡権兵衛 (手金野吉田家文書に吉田作太夫、慶安、承応年中、中津川代官とあり)
 ○慶安元年-万治三年(一六四八-一六六〇)市岡長右衛門 村分代官
 ○万治元年-万治二年(一六五八-一六五九)丸山久右衛門 堀尾作左衛門
 ○万治三年-寛文七年(一六六〇-一六六七)市岡長右衛門 村分代官(下町、中村、薄野、川上)

   勘定仕上之事
 一 中津川下町幷中村 薄野 川上年貢納方万治三庚子ゟ寛文四甲辰まで五ヶ年分其方書上之通勘定相究残り米三石四斗三升余幷先年勘定仕上残り弐拾壱石弐斗三升余此両様共ニ其方ニ合力米ニテ当暮ゟ差次可申者也
  寛文七未五月十日
         山甚兵 印
          市岡長右衛門どの
 ○万治三年-寛文一二年(一六六〇-一六七二)堀尾作左衛門 (宮川半右衛門の後か、寛文五年六月四日に家老より丸山久右衛門、堀尾作左衛門の文書)
 ○寛文二年-延宝八年(一六六二-一六八〇)桑原勘兵衛 (福島役所よりはじめて派遣される)