現在西宮町、西生寺の南一帯で、稲荷社は代官屋敷内に祭祀された社である。これは有力者丸山久右衛門の土地だったという。山村甚兵衛良喬の中津川滞留日記の天保一一年二月九日のところに「天気好 一 今日初午ニ付代官鎮守稲荷江まんちう五十供候事 今日は日悪敷参詣は追テ之事 二月十日 昨日稲荷江供候御神酒開ニテ伊東二郎ハ 市岡長右衛門 羽間杢十郎 羽間重蔵 岩井鎌七呼出呉候 長右衛門 重蔵 鎌七より酒二樽上り杢十郎より重詰肴上候事酒壱壺添」とあって、稲荷社の祭りに中津川宿の有力者が酒肴を出していることがわかるが、とにかく代官所はこの一帯に明治まであった。しかし江戸初期からでなく、はじめは北野地内にあった。萬留書 木曽山順見之一巻に「惣奉行佐藤半太夫以下大工 絵師を連れた一行十五人 右之衆寛文四辰十日ニ尾州発足十二日ニ落合へ参着 中津川にて富田御屋敷をかり申度由 断って即御屋敷にて土ニテ山形を作り置き夫を木形に作り候をさいしき申され候 谷中(木曽)より肝煎一人年寄一人づつ中津川へ罷越我村々の山形土にて作り立申候事」とあって、木曽谷中の絵図つくりに、中津川の富田御屋敷をつかったことをあげている。この富田というのは北野地内にあり、寛文頃は北野に代官所があったことを証している。御屋敷が代官所であることは、これが地名として残っていることをみればわかる。例えば駒場町裏の御屋敷は「久々利」方の代官屋敷、千旦林村新田にある御屋敷は同じく「久々利」方代官越石氏の屋敷跡であろう。