寛文以後の代官名

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○延宝九年-元禄五年(一六八一-一六九二)        原茂右衛門
 (桑原勘兵衛、原茂右衛門代官の頃、作左衛門 久右衛門両人村分代官致せし様にもうけたまわり候へ共証なし 原茂右衛門元禄五年正月二二日けんか死亡 相手丸山久右衛門御暇)
○元禄五年-同一五年(一六九二-一七〇二)        川口茂右衛門
 (中津川、落合、手金野三ヶ村代官千旦林村二代目山村喜左衛門正家村内百石之給所と場所替下され 正家村上り知の分年貢納払等茄子川安田作十郎仰付られ これは貞享、元禄の頃か)
○元禄一六年(一七〇三)                 原彦左衛門
○元禄一七年-宝永四年(一七〇四-一七〇七)       川崎八郎右衛門
○宝永五年-同七年(一七〇八-一七一〇)         井沢小市郎
○正徳元年(一七一一)                  向井六内 (この年より役料二〇石付)
○正徳二年-享保一一年(一七一二-一七二六)       沢田与惣左衛門
 (享保七年より伜太左衛門助役 茄子川代官作十郎大借潰 願により取あげ 享保一〇年より茄子川、正家、辻原 岩屋堂 中津川代官支配)
○享保一二年-元文四年(一七二七-一七三九)       堀尾作左衛門
○元文四年(一七三九)                  山県五太夫
○元文六年-宝暦二年((寛延二年カ))(一七四一-一七五二)  向井五右衛門
○寛延二年-宝暦二年(一七四九-一七五二)        磯野郷右衛門
○宝暦二年-同六年(一七五二-一七五六)         大脇文右衛門
○宝暦一〇年-同一三年(一七六〇-一七六三)       平野新五左衛門
○宝暦一四年-明和六年(一七六四-一七六九)       川口茂左衛門
○明和六年-天明六年(一七六九-一七八六)        宮川弥五右衛門
以下は中村の安江浅吉の手記による。
○寛政元年(一七八九)  原 彦八郎
○寛政六年(一七九四)  三村与一郎
○寛政七年(一七九五)  原 彦八郎
○寛政九年(一七九七)  宮地源右衛門
○寛政一〇年(一七九八) 上田伴右衛門
○文化六年(一八〇九)  高坂等作
○文政二年(一八一九)  上田伴右衛門
○文政一二年(一八二九) 平野文助
○天保元年(一八三〇)  原 九郎左衛門
○天保七年(一八三六)  大脇武一郎
○天保八年(一八三七)  伊藤治八郎
○弘化三年(一八四六)  小島与一右衛門
 その後        三尾勘兵衛
            小野伝右衛門
            松井八左衛門

Ⅰ-36 中津川代官印