こうした歴史的成立過程をへているから近世の村役人には、
○支配機構の末端としての役割。
○村びとを代表し、村をまとめ、村びとの要求を推進していく役割。
の二面がある。「飯妻村法之事」にも村役人という言葉をつかって、これを三代勤めた家筋の者を長百姓として位置づけ、村の筆頭にあげているし、村のために軍役につくした者も、長百姓として敬意をはらっている。又たとえ家筋がよくても、村外から聟養子などで入った者は、一代は村役人を遠慮すべきだといっており、この根本には、
○村の事情に精通。
○村につくした家筋をたてる。
という考えがうかがえる。だから単に耕地が多いというだけでは村のリーダーとは認められなかった。
江戸時代も初期のころは支配固めの上からも、こうした長百姓、頭百姓級の協力がなければ行政は進まず、彼らの既得権を尊重したが、時代が下るにつれて村役人の役割は、支配の末端としての性格を強めていったというのが一般の傾向であろう。
その一例をあげれば、文政一〇年(一八二七)六月、岩村領の家老丹羽瀬清左衛門が政治改革の一つとして、「村方被仰出之書」を出したが、その折村役人を岩村の会所に集めて訓示をした。その中で飯沼村庄屋藤四郎を引きあいに出し、「村役人というのは、少しばかり読書(よみかき)が好きだからといって百姓持前の耕作を怠ってはいけないし、身分が少しばかり高いといって、お上を恐れないのはいけない。御用第一に心得て、年貢がでない場合は、持林、扣田地を人に譲っても御用にたてるくらいな気持がなければいけない。」と言っている(広岡鷹見家文書)。