(1) 庄屋は一段上の命令者の地位を保つ必要があること。
これはこの節のはじめにあげた「飯妻村法之事」の五条目に「小百姓の義者ハ表向之節」として裃、袴は申すに及ばす羽織、下駄、傘などを使っていけないとしているし、寛永二〇年(一六四三)尾張領の定書の中に「庄屋とその妻子は絹、紬、布、脇百姓は布、木綿に限り」となっており、衣服の面だけみても庄屋、組頭など村役人の地位が他の村民(百姓)とは異なっていた。またこのことは幕府の五人組に関する申渡事項の中にもあって、村内においては一段高い身分であることをあらわしている。
(2) 庄屋は公平、親身な人格であること。
幕府の農民支配の基本を示した「慶安御触書」三二条の中にも「公義法度を重んじ、代官をはじめ庄屋組頭を真の親と思うべきこと」という意味の条文があるし、前記五人組の申渡事項の中に「田畑質地証文ニ名主加判無之証文 又は名主置候質地ハ相名主 年寄 組頭等の役人加判無の証文 其外地主より年貢諸役を勤 金主は年貢諸役を不勤質地之類は前々より御停止ニ候処 右之通不埓成証文を以訴出候もの有之間 弥質地証文相極候節 入念右体之儀無之様ニ可仕……」とあり、質地証文には庄屋加判がなければ無効であると記されている。質地証文には「年貢差詰り」を理由とした場合が多くあるが、親身になってやる庄屋とそうでない庄屋の違いがあろう。
岩村領法度の中に「何事によらず大勢申合せ徒党がましき願い訴訟は停止せよ」としてその附で「附百姓共庄屋組頭指図いたし候儀相背くべからず 若し違背の族あれば 詮議の上急度申付くべく候 庄屋組頭は万端正路に取計うべし 万一百姓共へ非分申かけ候段相聞之候ハハ曲事たるべき事」とあって庄屋は村民に対して、公平でなければならないことを強調している。このことは毎年だされる免定の指示文に「右紙面之通名主惣百姓立合高下無之様割府極月十日限急度可皆済者也」(享保七年廣岡新田)又享保一三年(一七二八)中新井村千村方(久々利方)の免定では「略……庄屋組頭惣百姓不残立合以来申分無之様ニ高ニ付無高下致割符……以下略」と特に年貢の個人への割付けの公平をいっている。[傍点筆者]
(3) 庄屋には資産が必要であった。
連帯責任としての年貢収納であるから、万一命ぜられた数量が期日までに納められなかった場合に、庄屋立替の必要もあろうし、村入用諸費についても同様である。
庄屋には庄屋給という手当はあるが、それだけでは不十分であろう。文政一〇年岩村領の改革で「御用金が集まらんようなら、庄屋の扣林、扣田畑を質に入れて出すのだ」と家老丹羽瀬がいっているのもこのことである。
では庄屋の資産はどのようなものであったか。
丹羽瀬清左衛門と論をした飯沼村の藤四郎家についてみると、Ⅰ-39表の通りである。古田分増加のみで四二石八斗二升三合余を所有し、宝暦六年(一七五六)には個人で飯沼の後田川原田四か所に新田を開いているし、同家に残された日誌によれば、「紙すき」を副業として行っていた。
I-39 飯沼村の藤四郎の田地増加について
又手金野村、「岡本家諸事留記」によれば、慶応四年(明治元年、一八六八)三月に手金野村の新井筋の付替普請長さ五九間(約一〇七米)の工事人夫代について、御上様より下され分の外の、村方負担分として
○人足八拾人 庄屋 中川萬兵衛 見舞
○人足廿人 吉田小左衛門 見舞
○人足百人 村方より
内廿八人 一日ずつ無賃
三拾六人 村方軒別壱人
拾人 定使給増の内より見舞(第四章第一節新田開発参照)
の記事がみられるが、当時立入庄屋として中津川村年寄ながら、手金野村庄屋の兼務を命ぜられた萬兵衛と前庄屋小左衛門は見舞八〇人分、二〇人分の人夫代を出している。
他の村民が一日無賃勤め、一日は軒別勤めの負担であるのとくらべ庄屋見舞としての負担は大きい。萬兵衛家は、寛文、延宝、天和、元禄にかけて中津川庄屋を勤めた家であり、前節であげた中津川代官所手代小川権蔵の「諸事扱留」の中にある中津川辺村々役人覚では、市岡長右衛門、森孫右衛門についで三番目に年寄中川萬兵衛(六右衛門伜)と記されているように、中津川宿の有力者である。また小左衛門の家は、吉田氏三代記によれば、元和年中より切起しをはじめ、享保年中に、「東原手金野小字草野新田水巻外別置」するまでになり、幕末では七人の小作をもち、別家では薬売買を手金野の中山道筋でひらく程であった。千旦林村三百石方(山村八郎左衛門分、扱いは中津川代官所)の庄屋市郎右衛門は、天保七年(一八三六)の年貢皆済帳によれば、三百石方百姓八五名の中で唯一人一〇石を越す高持家である。このことは、その他の村むらの庄屋についても同様である。
特に飢餓、御用金、無尽などの問題をめぐってどう庄屋が対処したかが庄屋と村民、庄屋と領主との間の関係にときとして差異を生じ、また深いつながりをつくりあげることにかかわってくる。領主より庄屋に対しての「苗字帯刀」免許などもその一例である。
一 弥左衛門(落合村木曽方庄屋)帯刀御免を蒙り候儀 安永七年戌閏七月中津川宿年寄役萬兵衛と一緒に御免仰付候(落合・塚田手鑑)
[付]苗字帯刀については、誰から免許されたか、村内の場合のみか、役付の時期のみか、一代か永代かなどで違う。尾張領山村、千村知行所では、知行主からか、尾張徳川家から許されたものかで格も異なるものである。
(四) 庄屋は交渉能力も必要である。
これは行政であるから当然のことであろう。不作、災害、川除普請の費用などについて地方支配の代官・手代などと交渉しなければならない場合、他村と水、山をめぐって争論が起きた場合、また村内の若者連中との交渉や、各種割当に対して納得させる力など、庄屋の能力によって村の生活、生産への影響がでる場合も多くあったであろう。
元禄一五年(一七〇二)青野村の村役人が青野村は分立支配であるから年貢免定は阿木村内に含めないようにしてほしいと願い出たことは、第五節であげたが、この交渉は同年一一月二六日に願書を提出してから、翌年二月四日に許可されるまでの間、岩村領当局の地方役人と阿木村本郷庄屋を相手にねばり強く交渉している。青野村が分立を守るということは、一般的な公儀(幕府)負担、例えば助郷などの負担をもたなくてもよいことを意味し、青野村の生活防衛の上からもねばらざるを得なかっただろう。この青野の分立村精神は、青野村代々の村役人に引つがれ、明治に至っている。
延享四年(一七四七)幕府は笠松代官青木次郎九郎をへて、岩村領に対して「来年朝鮮人来朝のことで、小熊川船橋御用の縄を出すよう。」に命じてき、岩村城主は触を各村に廻して同じ事を命じた。青野村役人弥之右衛門らは岩村領代官手代竹内武左衛門のところへ出て「私共は前々から朝鮮人来朝の時に御用の縄の上納はしておりません。だから今度も先規の通り除いていただきたくお願いにきました。」と願い出ると、手代竹内は「今度も先規のように出さなくてもよいと思うが、大切なことだから代官のところへいって申し上げてみよ。」と歯切れの悪い答をしている。そこで弥之右衛門らは代官金井源五郎のところへいって同様の願いをしたところ、代官は「今度も先規のように申し付けたのであって格別のことではない。しかし、お前たちの村も古高のうち(延宝以前の検地)に入っているのだから出すのは当然である。」といって縄上納すべきであると代官は譲らない。ここからが青野村役人弥之右衛門のねばりで「私共の申し上げているのは、青野村は私共の先祖弥左衛門が切起した所で、元来新田であります。阿木村御所帳高[幕府公表]千五百八拾九石六斗四升目の内ではありません。だから丹羽様の時代も諸役は除いていただいておりました。」ともっとも基本のところをついたところ、代官は地方役人らしい発想で「先年の朝鮮人の御用縄の証文に其方の村役人の名印があるかどうか郡方(郡奉行で代官の一段上)に申達して吟味してみるから今日は帰れ。」といわれ、一〇日程して弥之右衛門らは代官所へ出向き「御用縄のことはどうなりましたか。」と尋ねたところ「先年の証文には其方村役人名印はなかった。郡方の間違いで今度命令したが、先例のように除くことにする。来る正月四日村々の役人を御会所に集めるが、そのとき命令の触書から青野村名を切りとって返すことにする。」と申し渡し、翌年(延享五年=寛延元年一七四八)正月四日に代官は青野村名を切りとって、その継目に各村の村役人に継印をさせるよう、手代の竹内武左衛門に命じてやらせている。
村の言い分をはっきり言って交渉し、村の既得権を守ったわけである。宝暦年中に入って同四年(一七五四)の琉球人参向の節もこれについて御用触を青野村へ廻しており、まったく同様に村役人が申し出ると郡方のまちがいと切り抜けている。宝暦九年(一七五九)は郡上一揆で金森氏改易となり郡上八幡城の請取を岩村松平氏に幕府は命じているが、これについて岩村領では「郷夫本田高百石ニ付三人程之積 郷夫被仰付候 今度ハ御人夥敷被召連候儀 格別之御用ニ付出高新田諸役御除キノ村迠モ御本田高半減ノ積リ郷夫可差出旨仰付候」とあるように、この時ははっきり諸役除きの村からも出せと触を廻している。しかしこのときも青野村は小枝村故と除かれている。
宝暦一三年(一七六三)の朝鮮人来朝の節も全く同様に、一度は命令の触に入れ、願い出によって除いている。この場合は枝郷四か村(青野、両伝寺、福岡新田、広岡新田)がそろって申し出ている。ところが岩村表も考えて朝鮮人来朝御用のことは除くが、御勝手不如意だから御用金を出してほしいと村役人にいっている。一村だけの交渉から関係村むらが一致して交渉する。それに対して岩村表も要求を入れながらも他の要求をもちだすというように、時代が下るにつれて、村役人には広い視野に立っての交渉能力がもとめられてくる。天保八年(一八三七)岩村領内五二か村が丹羽瀬家老の政治改革に一致して申し立てをし、これを中止させたのもこの線上でも考えることができる(青野村関係資料・中巻別編青野年代覚書八三七頁)。