苗木領の庄屋給

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苗木領関係については、苗木だけ格別というわけではあるまいが、「元来庄屋給料小分ニテ勤メ兼候」(福岡町大野家文書庄屋代役中諸日記)とあるから、庄屋の勤務の多忙にしては庄屋給は少額であったと考えられる。幕末に近い弘化二年(一八四五)の苗木領庄屋給米(役米)にあたるとみられるものをみると、
 
 四石五斗  当城(苗木城下)  上地村給米
 三石    蛭川  坂下合郷庄屋給米
 五石    上田  下立 庄屋給米
 六石    中屋  名倉 佐見新田 久田嶋村給米
 
 と記録され、計一八石五斗となる。「給米」と「庄屋給米」の記録のちがいは、何を意味するか不明であるが、庄屋などの村役人の給与的なものと考えられる。これを年貢の中から差引いたか、改めて給与したか分からないし、これだけでは一庄屋に対してどれだけか分からない。この点については高一五六石余の上地村庄屋である市岡家の場合は「宝永二年(一七〇五)より壱石五斗庄屋役領(料)被下置志也」とある。また加茂郡久田嶋村庄屋が文政元年(一八一八)に一石五斗の給米を受けている(白川町史)。これを弘化二年の「六石中屋村 名倉村 佐見新田 久田嶋村」とあわせて考えてみると、四か村で六石であるから、一村へは一・五石となる。同様に考えていくと「四石五斗 当城 上地村」であるから、上地村の一・五石を差引と、当城分は三石となる。当城分である日比野村には庄屋二人といわれるから、一人はやはり一・五石となる。
 今一つは、ここにあがっていない村の庄屋に対しては給米はどうであったかが問題であるが、この庄屋給米のある村とない村の庄屋の特権について「苗木藩政史研究」(後藤時男氏)は次のようにまとめている。
 「さてこれらの庄屋は、行政事務を行なったため、藩は庄屋に『庄屋給米』を支給しているが、これは全員でなく元禄期にはⅠ-40表の庄屋が給米を受け、その総計は一七石となっている。この他の庄屋の場合は、給米が支給されないかわりに、『高役』を免除されていた。」

Ⅰ-40 苗木領庄屋給米

 福岡村のように元禄期には庄屋給米はあるが、弘化年中の記録にはなくなっている村もあり、その理由は分からない。苗木領の庄屋給米を一・五石とし、庄屋の利になる他の条件は考慮外として、市内で判明する他領の様子と比較してみると、I-41表のようになり、苗木領内が格別庄屋給が低いとは、断定できない。

Ⅰ-41 庄屋給米について(上地・落合・茄子川・湯舟沢)

 庄屋給以外に村には「庄屋林」といわれる庄屋の財産があったところもある。元禄二年(一六八九)苗木領下野村庄屋新兵衛は隣村である福岡、田瀬との山出入に負け自殺をするが、彼が管理していた山林について「新兵衛死後 惣山にして本郷 見佐島の農地が五月朔日 柴の口開き 柴草刈境地となる」(下野史稿)とあるのもその例であるし、久田嶋庄屋が村民へ伝達した文書の中に「近年庄屋林で伐木する者が多くなって、山は殊の外さびしくなった。必用木は願い出れば伐採を許すが、木取りの見積りをぜいたくにしないことと、末(うら)木、枝などは庄屋所の薪用とするため残しておくこと。また用木材採壱本につき桧、杉のうちどちらかを拾本ずつ植木すること。」(白川町史)とあるし、庄屋林の目的を、白川町史は、庄屋宅の修理、薪、庄屋費用の財源などであると推察している。又苗木植松家文書によれば、庄屋宅は村の公的な家として屋根替え代、雨樋の作りかえ、表通りの障子の張り替え、庄屋の事務で使用した燈油代、紙代、筆墨代まで村入用として各戸に割り当てている。