この三か村の庄屋給については、「地方凡例録」の示すところによれば、中津川村米一〇俵、駒場村米八俵、手金野村米五俵ということになるが、実際にはどれ程であったか「美濃覚書」の中津川村高の記録の中で引高としてあげているもののうち
一 米払七石納六石五斗四升五合三勺四才
問屋 長兵衛江被下置
一 米払五石納四石六斗八合弐勺九才
庄屋 九郎兵衛給
一 米払三石弐斗五升五合
問屋給
その他に
三斗四合 上金庄屋
三石四斗七升三合 川上村庄屋
となっている。
手金野村については、同書によると村高よりの引高の中に
一一石三斗三升一合 上畑一反二畝三歩 庄屋屋敷免
一五石 田五反 庄屋免
と記録されているし、同村岡本家文書の中に「元和年中の頃より代々庄屋役相勤高六石三斗三升一合庄屋免許にして納目録帳ニ御引高ニ相成居申候-以下略-」とあって、庄屋役の勤高を年貢より引いていることがわかる。
又天保四年(一八三三)に同村庄屋になった小左衛門への任命書のなかに「今般庄屋岡本利助無據退(よんどころなく)役被仰付候付右後役被仰付給米並之通被下置候 出精相勤候様被仰付候 右之通御家老衆ゟ被申聞候 以上」[傍点筆者]とあって、給米をくだしおくの文面がみられるから、美濃覚書と岡本家文書にある庄屋免と庄屋役相勤高を庄屋給と考えたい。手金野村については、さらに吉田三代記(吉田家文書)によると文化六年(一八〇九)川除け(用水修理)用の木をきるのに間違えて御用木を切ってしまったので、庄屋林で一五〇本の木を切ってそれにかえたという記事があるから、庄屋林が手金野にあったことがわかる。七〇〇余石の村高で千村平右衛門知行所(久々利方)である駒場村の庄屋給についてはよくわからない。