千旦林、茄子川の庄屋給

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千旦林、辻原、中新井、茄子川の庄屋給についてみると、千旦林村三百石方(山村八郎右衛門知行で山村甚兵衛中津川代官所支配)の天保七年(一八三六)の「年貢皆済帳」にある庄屋市郎右衛門分をⅠ-42表に示した。高約一一石であるが「給米二石」というのがあってこれを差引いて年貢を納めている。これが三百石方の庄屋給であろう。千旦林村の木曽方、久々利方の庄屋給についてはよく分からない。

Ⅰ-42 天保七年分千旦林三百石方
庄屋市郎右衛門分庄屋給(年貢皆済より)

 中新井村久々利方については「御物成払方目録仕上帳」に記入されているが、それをまとめたのがⅠ-43表である。これによると久々利方中新井村の庄屋給は二斗一升で、やはり差引勘定で受けていることが分かる。その他に「庄屋手当」というものがあって四斗と庄屋給より多いが、天保三年の決済より半減している。

Ⅰ-43 中新井村庄屋手当(物成払方目録より)

 茄子川村も千旦林村同様に知行者は複数以上になっており、木曽方(山村氏)、久々利方(千村氏)、尾張方、釜戸方(旗本馬場氏)の四人の庄屋がいる時代が長く続くが、そのうち木曽方について「美濃覚書」の茄子川村のうち引高としてあげているもののうちに、
 
 一石三斗二升  上畑一反一畝  作十郎屋敷免
   四斗八升  上畑  四畝  長八郎屋敷免
 
 とある。作十郎家は江戸初期に代官、庄屋をつとめた家であるから、屋敷地を免ぜられたと考えられるが、これは庄屋の公的性格を示す一例で、屋敷地の年貢は免除されているわけである。庄屋給については幕末期と推定される「午御蔵引合目録覚」に、
 
 壱石弐斗九升三勺弐才
  未年庄屋給米払弐石之内三割御借上引残之分 右年貢に入
 
 とあるから、茄子川村木曽方の庄屋給は二石と考えられるし、領主の財政困窮によって、この庄屋給を借上げる場合もあったことを示している。同文書の嘉永六年(一八五三)分はⅠ-44表に示しているが、この年は庄屋給米の四割を借上げている。これらから茄子川村木曽方庄屋給米については二石と考えられる。

Ⅰ-44 嘉永六年丑御年貢過不足帳のうち御蔵引合目録より(茄子川村木曽方)