組頭は庄屋の補佐役であり、庄屋と共に村民を統率する任務をもっていた。年貢確保を第一として、村の諸取締を実際に行っていく責任を庄屋と共に、幕藩側より課せられていた。例えば先にあげた「岩村領民御法度」=条々の二項「一 きりしたん宗門弥々入念相改 庄屋組頭 常々心を付け 不審なるもの於レ有レ之ては 早速 可申出事」のように、庄屋組頭と一緒に指定してなすべきことを明示している場合が多い。つまり職務内容は庄屋とほぼ同様であるがその補佐役であるから、給米も庄屋が「四〇石諸役村除き」なら、組頭は「一〇石諸役村除き」(飯沼村の場合)のように少なかった。
前にあげた小川権蔵の「諸事留記」の中にある「中津川辺村々役人覚」によると
中津川村庄屋問屋 市岡長右衛門
脇本陣 問屋 森孫右衛門
年寄 中川萬兵衛
〃 菅井嘉兵衛
〃 岩井鎌七
〃 酒井□左衛門
落合村 庄屋 塚田弥左衛門
年寄 上田庄蔵
〃 鈴木健次郎
手金野村 庄屋 吉田小左衛門
組頭 政助
〃 喜兵衛
〃 久四郎
千旦林村 庄屋 彦右衛門
組頭 与右衛門
〃 利助
〃 伊兵衛
――以下略――
とあって宿村である中津川、落合は「年寄」となっており、一般の村は「組頭」である。「岐阜県史」によると「組頭は元来は五人組の頭分で、いまは百姓の高も相応に、人柄もよく筆算に長じたものを、村の大小により三人ないし五人をおく」「年寄は、『庄屋代りの年寄』といわれるように、庄屋の補佐役で……」としている。組頭と年寄は補佐役という性格は両方とももつが、組頭の場合は村内の地域の広さ、その区分などを背景にもって、村内のこの地域から一名というようにえらばれてくるのに対し、年寄は宿場内の適任者がそうした地域区分にあまり関係なくえらばれてくるという違いと、もう一つは後述するが中津川の在方(中村、実戸、川上など)には小庄屋と呼ばれる人がいて、これが一般の村における組頭的な仕事を受持っていることからも分かるように宿の仕事の推進と宿取締の役目をもっていたと考えられる。