百姓代

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百姓代は村民の代表で庄屋、組頭を監督し年貢、村費の割当にあたり村民の利害を代表して立会った。従って村の願書など幕藩へ提出する文書には連署するのが普通であり、また村民の各証書、届書にも連署している。百姓代にはたいていは大高持の百姓があたり給米などの報酬はなかったといわれる。市内の各村で百姓代の活躍が格別であったというような資料はなく、その性格については「村民の代表」という一般論でしかいえない。
 この村民の代表と大高持の百姓という点は、時には矛盾することもあって、百姓代の他に「小前惣代」なるものが登場することもある。天保一五年(一八四四)に発生した阿木村本郷(主として野田地域)と青野村が山の入会争いをした時の調停書「差入申一札之事」の署名者は次のようである。
 
  阿木村宮田  小前惣代  善兵衛
  同断   半四郎
  同断   武兵衛
  野田  同断  喜平次
  同断   清兵衛
  同断   利吉
  同村 百姓代     弥吉
  組頭     林右衛門
  同断     彦十郎
  庄屋     半七
 
 この調停書は岩村町役人長谷川平七の仲裁によるが、その宛名をみると次のようになっている。
 
 青野村組頭   利右衛門殿
   百姓代   次兵衛殿
   百姓惣代  半左衛門殿
 
 以上のような柴山、草山の争いのような村民全体、とりわけ小百姓に関係する件についてであるから「小前惣代」「百姓惣代」が登場したのだろう。前記した文化七年の湯舟沢村の組頭選出の「申合せ」の中に勘定立会村方惣代を村中からえらぶ条項があるが、これも一般村民の代表者として立合うことで一般的にいわれる百姓代とは異なるが、村民を代表してという点では同じでそれだけ時代が下るにつれて百姓代が百姓を代表しなくなっていたとも解せられる。
 苗木領の村には百姓代の署名は見あたらないことについては次の項に述べる。
 以上の村役人以外に庄屋役場につめて、庄屋の雑務に従っている定使(じょうつかい)がある。定使は当番定夫などともいわれたようであるが、苗木領、尾張御領とも給米とともに村民全部の割当負担で出している(市史中巻別編・千旦林村年貢皆済帳・中野方町史)。