湯舟沢村

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 (1) 下代肝煎手間ノ事 木曽二八か村の最南端の湯舟沢村について
 ○慶長一六年の御定書 寛永一七年の文書などによると、庄屋を肝煎と公称していたこと
 ○庄屋の上に、つまり山村氏との間に村代官(手代)が村にあったこと。
 ○庄屋給については享保九年(一七二四)の検地以前は、村民から納物椀飯や労役提供があったが、この時廃止され庄屋出願によって上納米のうちより三石宛下附されるようになったこと。
 この三点については前述したが、第三点の木曽の特色についてさらにくわしくふれなければならない。
 慶長一三年(一六〇八)に山村甚兵衛良勝から木曽各村の肝煎宛に出された「毎年可相勤条々之事」の第九項に、
 
 一 下代(代官)肝煎手間ノ事年中ニ壱人ニ而十人ツゝ可仕候此外一人も津(つ)かわれましく候右の内三人は肝煎分也是ハ薪馬のくさのために候事
 
 とあって肝煎=庄屋は村民から一軒について一〇人宛勤めるが、このうち三人を庄屋手伝として、薪取りや馬草取りとしてつかってよい、というわけであり庄屋に対して村民が夫役労働を負担していたことを示しており、享保以後の三石の庄屋給が多分に末端支配機構の役割料的なものであるのに対して、江戸初期は村の指導者に対する村民の奉仕的な性格を示していると考えられる。
[付]湯舟沢村にはさきにもふれたが、本役人、水役人、小役人の三階層があった。小役人は門屋、本役人は一六人いて、役木の負担をすると共に村の構成員である。水役人はその中間に位置する一般階層であろう。
 (2) 相庄屋 地方諸用留扣帳(島崎家文書・市史中巻別編)にでている延享二年(一七四五)四月尾州巡見の覚によると
 
 一 家数七拾八軒 一人数四百八拾七人
           内男弐百五拾四人
            女弐百三拾三人
 一 反数-略
 一 家壱軒嶋田ト申所 壱軒槌馬ト申所、家六軒川表 家三軒沓掛 家壱軒立岩 家壱軒新茶屋 家四軒上田 家弐軒小姓 家三軒中嶋 家四軒まき 家五軒小森 家三軒塩野 家弐軒草木 家壱軒栃ヶ洞 家弐軒高野 家壱軒殿畑 家壱軒桂ヶ洞 家拾壱軒細野 家弐軒甲ヵ屋敷 家弐軒程嵩 家壱軒宮前 家四軒川原田 家壱軒細野坂 家六軒味噌野 家八軒中切 家壱軒天徳寺
  延享二年丑四月
     庄屋 伝右衛門  義左衛門
     組頭 甚四郎 惣七 清次郎
        与兵衛
 岡頭伝大夫殿
 
 とでている。この家のはじめにでている嶋田は庄屋伝右衛門、次の槌馬屋は庄屋義左衛門の家である。湯舟沢村は庄屋二人、つまり相庄屋の村でありこの両家が世襲で庄屋を勤めて明治維新まで続いている。
 又同じ扣留帳に 文政七年(一八二四)申正月改の庄屋以外の村役人は、
 
 組頭 惣次郎 弥助 長八 助左衛門 新平 松之助 (六名)
 百姓惣代 仙次郎 定右衛門 円吉 孫助 義作 (五名)
 霧ヶ原惣代 金次郎 又市郎
 新屋敷新田惣代 藤四郎 作兵衛
 無高惣代 利兵衛 伝八 助十
 
 となっており、百姓惣代以外に新田である霧ヶ原など新田の惣代と無高惣代とがあって、湯舟沢村の動きに意見を出したり参加させられていたことがわかる。
 このように庄屋以外は改められることがあった。世襲庄屋の「嶋田」と「槌馬屋」が交替で勤めたか、分担したか、よく分からないが、相庄屋としてつづいたわけである。この二軒は他の湯舟沢の家には見られない「譜代下男」などをもっている家でもあった。例えば、享保二年(一七一七)の宗門帳によると「嶋田」は血縁家族八人と譜代下男、奉公人一三人の計二一人であり同年「槌馬屋」は家族五人、譜代下男下女三人の計八人となっている。同年の家族数の多いのには組頭藤七郎の家が一九人となっているが、これは血縁四夫婦と子どもたちだけであって譜代下男下女はいない。幕末の万延元年(一八六〇)をみても「嶋田」には譜代下男下女五、門屋八、「槌馬屋」には譜代下男家二、門屋三となっていて続いている。