この宿方と村方の役人を同一人が兼務しているところに落合の特色がある。つまり、小村である落合村は、宿方、村方がはっきりした区別なしにおこなわれたようである。その村方は山村、千村の二知行所であるから、庄屋は当然二人いたし年寄(村方の組頭にあたる)も山村方、千村方にわかれていた。
このような宿村役人の様子について、「濃州徇行記」(中巻別篇六九九頁)では「○庄屋塚田弥左衛門(山村方) 小左衛門(千村方) 本陣五左衛門(千村方) 年寄利左衛門 善助(久々利方) 勘兵衛(山村方)と云 其内弥左衛門 五左衛門は問屋を兼ねつとむる也と」とあげている。さらに「小川権蔵日記」(山村方中津川代官所手代 諸事取扱留)には、落合村の山村方村役人について、「落合村庄屋 塚田弥左衛門 年寄 上田庄蔵 鈴木健次郎 加藤勘四郎 年寄代庄屋倅露助 御目見 鈴木理左衛門」となっている。また年寄家の上田文書(弘化元年)には山村方庄屋、問屋塚田弥左衛門、年寄上田庄蔵 加納勘四郎、千村方は庄屋、問屋井口馬治郎、年寄井口六郎右衛門、年寄添庄屋井口浅助(落合郷土誌)となっている。以上をもとに推察すると、
山村方 庄屋問屋塚田弥左衛門家 年寄役二名 千村方 庄屋問屋本陣井口五左衛門家 年寄役二名
で、庄屋、問屋家は山村方が塚田家、千村方は井口家が世襲し、老齢になると倅が代庄屋をつとめ、庄屋の後継者が幼少ならば、年寄役が添庄屋をつとめていたようである。このように村高を折半(せっぱん)して領する山村、千村の落合村では宿役人も折半して、村役人が勤めていた。ただし山村方の庄屋は江戸初期から中期にかけては市岡喜平次家(初期には中津川子野の村代官をつとめた家)であったのをその名跡をついで塚田弥左衛門家が続いたし、千村方も安永年中に庄屋役からはなれた一時期があったとも考えられる。
(2) 惣庄屋 戸数にして約一六〇戸の落合村が、山村方、千村方とそれぞれ八〇戸程に二分されて入相知行となっていたとしても、草刈場である一村惣山のこと、用水のこと、八幡社、白山社などの祭礼については、一村として行事を進めていかなければならないので、両庄屋のうちどちらかが主導しなければならない。これを茄子川にみられるような「当番庄屋」というような輪番制でつとめたのか、或は常にどちらかの庄屋が主導したのか、この間の事情はよく分からない。
又一方支配者側からみると、代官所設置の天明二年以後の尾張御領は山村、千村のような給地に対しても年貢、宗門改め以外の一般行政上では支配を強めてくるが、そうすると庄屋が二名いる村では誰か一人を窓口として進める必要がある。
こうしたことで太田代官所が各村より呼び出して、庄屋役を任命している文書がある。(塚田手鑑)それによると寛政七年(一七九五)五月二日 太田代官所へ細久手、大湫(くて)、正家と共に茄子川、千旦林、手金野、駒場、中津川それに落合より一名を呼び出して「……尤是までは地頭方庄屋を相勤めていたが 今般相改めて表向の役儀を申付るから……諸事御用相勤諸願達事はその名前で書出せ」という意味のことを下命されたと記されている。
呼びだされた人は、「落合手鑑」の作者の弥左衛門、中津川は九郎兵衛、駒場は儀次郎、手金野は利兵衛、千旦林は儀次郎、茄子川は武助である。「表向の役儀」とは尾張領内の一般行政をさすものであろう。この庄屋は一般的には大庄屋、総庄屋などとよばれている。同手鑑にはまた「塚田喜平次退役願後養子栄助願済之節一件登記ス」(市史中巻別編一〇七八頁)として弥左衛門が尾張御領任命庄屋役を退役して養子にゆずった時に、太田代官所から名古屋表まで「御礼奉申し上」に出向いたことを記している。そこで以上を、江戸時代後期の落合宿村の二庄屋についてまとめると、Ⅰ-47表のようになる。
Ⅰ-47 落合村=庄屋家と宿村支配