(1) 町と在 中津川村高一三三四石六斗三升の内訳が町分高六四九石六斗四升七合をはじめ中村分三六四石七斗六合、実戸分高一五九石五斗二升三合など、以下子野、恵下、徳原、松田、川上分などにわかれており石盛、免とも異なっている。このように宿村である中津川村は「町」と中村以下の「在」に二分して考えなければならない。宝暦六年(一七五六)の高寄帳(市史中巻別編四六一頁)をみても下(した)町、上(うわ)町の町分と中村以下にわけており、裏表紙に「中津川町在郷」とも記されている。町には宿関係の事務と町内事務の役人が必要であるし、在には村行政の役人が当然存在しなければならない。それに中津川宿村全体としての責任者が必要であると同時に町と在との調整も重要であったと考えられる。こうした条件で、中津川村の村役人をみていくことにする。
(2) 中津川村の村役人 小川権蔵日記(中津川代官所手代)に支配下の村役人一覧があるが、それにより中津川村関係を抜粋すると次のようになる。
中津川庄屋問屋
文政八酉問屋
市岡長右衛門
天保八酉庄屋
脇本陣問屋
天保九戌四月ゟ 森孫右衛門
年寄
天保二卯十月 中川萬兵衛 倅儀
死去養子 ○羽間杢右衛門
年寄 羽間重蔵退役
年寄 大屋与一右衛門
天保(一一年)子年 年寄 菅井嘉蔵
大組 勝野七兵衛
年寄 岩井鎌七
羽間半兵衛
年寄 酒井猪左衛門
高木由兵衛
十一屋長兵衛
扇屋半蔵
――中略――
庄屋次席 岩井助七
倅 庄次郎
――中略――(以下町方役人を省き在方役人名をあげる。)
中村小庄屋
天保一三年 成木治兵衛
弘化二巳春 成木文治郎
同組頭
弘化四未八月ゟ小庄屋 源蔵
天保一二年 組頭 孫兵衛
天保一三寅十二月改名同 新蔵(新七)
弘化四未八月ゟ 同 周助
実戸村小庄屋
治郎七
同 組頭 政助
天保十三年又七〃 清八
跡役
川上村小庄屋
半七
同 組頭 勝助
〃 市右衛門
〃 磯吉
〃 代同人倅 専右衛門
北野村小庄屋 (記入なし)
与頭
子野村小庄屋 吉兵衛(勝野)
上金村小庄屋
与頭 七兵衛(勝野)
また、「中川旧記」の安政六年蔵入文書(市史中巻別編九七九頁)には、次のように村役人名が記されている。
川上村庄屋 半七
子野吉兵衛分ニ付小庄屋
子野村小庄屋 吉兵衛
上金彦兵衛分ヘ同断高弐斗四合免許
上金村小庄屋 菅井喜兵衛
北野村小庄屋 勝野七兵衛
実戸村小庄屋 治郎七
中村小庄屋 成木治兵衛
年寄 酒井善右衛門
同断 大屋又八郎
同断 岩井休助
同断 中川萬兵衛
同断 菅井嘉兵衛
問屋 森 孫右衛門
庄屋 肥田九郎兵衛
同断 市岡長右衛門
これら二つの資料からも分かるように中津川村では、
① 町と在にわけて、在方の小村(中村、実戸など)には小庄屋、組頭があったこと。
② 町方には「大組頭」とも呼べる町内事務の役があったこと。
③ したがって中津川村庄屋は、町方、在方の年貢関係一切を取りしきる「大庄屋」であったこと。(中津川村庄屋は肥田九郎兵衛家が享保以後一貫してつとめているが、ここにあげた天保八年頃に一時、市岡家がつとめている。)
④ もちろん宿関係は問屋、年寄(三~五名)が中心であり、これらの人達は大高持の場合が多いし、商業を兼ねている者であって中津川宿村をリードしていたこと。
⑤ 「在」の小庄屋は実戸なら実戸の年貢上納を中心にした責任者であるが、子野、上金、北野については「大組頭」「年寄」などを勤める七兵衛、吉兵衛、嘉兵衛が兼務している。このことを中川旧記では「子野吉兵衛分ニ付小庄屋 吉兵衛」として記している。