手金野村(手賀野村、手金村)

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 (1) 手金野村の成立 手金野村は村高約四四六石で、一村が山村甚兵衛の知行所で入相支配の村ではない。この村の成立と庄屋について、慶応元年(一八六五)の「芥草紙」(岡本家文書)には次のように記されている。
 
 当手金野村ハ駒場村ト同村也、天正年中之頃引別レ 手金野ト号ス
 庄屋ハ岡本惣右衛門ト云者 駒場村角田申処ニ居住之者ニテ引別レノ節 当村江引越 庄屋相勤メ 追々勤メ来リ候処……略
 
 これによれば、手金野村は近世初頭に駒場村より別れたことになる。土地開発の面からみると、手金野下用水は大永~享禄(一五二一~一五三一)頃に開かれたというし、吉田用水とも呼ばれる上用水は慶長~元和(一五九六~一六二三)特に大坂の陣の時にできたとも伝えられている(吉田三代記)ので手金野村が近世初頭又は中世末に開発されて、駒場村から別れた村であることは確実であろう。そして村創立以来岡本惣右衛門家(後継者は利兵衛名多し)が庄屋を勤めてきた。
 組頭については、正徳二年(一七一二)の千旦林村との山論文書では加助、又右衛門、喜右衛門の三名、小川権蔵日記(天保~文久)では政助、喜兵衛、久四郎の三名とでているから、だいたい三名であったろうと考えられる。
 (2) 庄屋入札 手金野村創立以来庄屋を勤めてきた岡本家文書(芥草紙)によると、
 「天保四年困窮幷病気 庄屋退役 後役入札遠山兵蔵落札改候へ共 いへん有 余儀なく吉田小左衛門江仰付……」
 となっており二〇〇余年勤めた庄屋を岡本家は退役するが、問題はその後で入札→落札→いへんあり→別人任命となっていることで、この「いへん有」とは何かははっきりしないが、山村知行主方の都合がそうさせたのだろうと推察している。
 (3) 立入庄屋 こうして天保四年から小左衛門が庄屋となり、ついで家を継いだ小助(小左衛門を襲名)が庄屋となって三年目の文久三年(一八六三)では、
 村方□□(免納)難成立ニ付 去文久三亥冬 御役所より成立方ニ付 立入庄屋として 中津川村市岡長右衛門、同中川萬兵衛殿両人江被仰付……(同村岡本家文書)とある。
 この事件は助郷増加など村費増大をめぐる問題であった。いってみれば村が破算状態となってしまって、その「成立方ニ付」中津川より立入庄屋が入ってきたわけである。
 慶応元年(一八六五)には萬兵衛一人の立入となりこの状況は明治三年頃までに引きつづいたようである。
 駒場村については資料不足で判明しないことが多い。元禄年中の庄屋は、清兵衛、宝暦~安永は儀右衛門(磯谷)、文化三年(一八〇六)彦右衛門(成木)、文政七年(一八二四)には栄蔵(丸山)、儀右衛門(磯谷)の二人の相庄屋、それ以後は、儀右衛門家の一人庄屋らしい。