(1) 惣庄屋・組庄屋 中津川村、駒場村、手金野村をのぞいて、山村、千村などの木曽衆領は一村を二人以上で分知している。この場合領主ごとに庄屋を置いたから、一か村に二名以上の庄屋がいることになる。千旦林村、茄子川村はこれにあたる。例えば千旦林村では山村甚兵衛、千村平右衛門、山村八郎右衛門の三人の木曽衆の相給地でそれぞれ木曽方、久々利方、三百石方と呼んでいた。だから三名の庄屋がいた。三百石方とは三百石を分領する山村八郎右衛門知行分で、この支配を木曽方の中津川代官所がまかされて執行していたことは、前述の通りであり「天保八年千旦林村山村八郎右衛門知行所年貢皆済帳 庄屋 幸脇市郎右衛門 山内新吉」(市史中巻別編貢租参照)とあって、庄屋が二名勤務、つまり相庄屋であったこともある。その上、千旦林村には辻原、中新井村、岩屋堂の枝村があり、これがまた木曽方、久々利方にわかれていたから、庄屋二名となり千旦林村には都合五~六名の庄屋がいたわけである。
茄子川村は第一節でふれたように、江戸初期には、山村甚兵衛、千村平右衛門、原十郎兵衛、千村助左衛門、山村清兵衛、千村次郎左衛門、三尾左京、それに馬場半左衛門と八名の知行主が一三〇〇余石を分知していた。その後寛文七年(一六六七)原十郎兵衛から三尾氏までの木曽衆は名古屋へ転じ、尾張領の蔵前取になってから、これらの領分は尾張徳川家直接支配地になった。又馬場氏は分家した馬場藤十郎分となっていった。こうして山村方(木曽方)、千村方(久々利方)、尾張方(蔵入方)、馬場氏(釜戸方、馬場氏の本家は釜戸村が本拠地)の四分知となった。したがって庄屋は四名いた。
天保五年(一八三四)茄子川、千旦林山論済証文の連署名は次のようになっている。
恵那郡千旦林村山村五郎兵衛様
組庄屋 惣庄屋 市郎右衛門 印
同所 組頭 甚右衛門 印
同所 組頭 新吉 印
千旦林村千村平右衛門様
組庄屋 儀兵衛 印
同所 組頭 清兵衛 印
山村甚兵衛様
組庄屋 惣右衛門 印
同 儀左衛門 印
同所 組頭 与右衛門 印
百姓惣代 新兵衛 印
相手方
同郡茄子川村惣庄屋
光岡丈助 印(尾張方)
同所 組頭 佐左衛門 印
利左衛門 印
山村甚兵衛様
組庄屋 助右衛門 印
組頭 善右衛門 印
千村平右衛門様
組庄屋 傅右衛門 印
同所 組頭 善蔵 印
百姓惣代 篠原長八郎
立入方
中津川村庄屋 肥田九郎兵衛 印
大井宿問屋 林良左衛門 印
伏見村庄屋 加納市右衛門 印
千旦林村、茄子川村とも庄屋が四~六名で知行主別にいたことがわかる。さらに前掲の資料によると、「惣庄屋」というのが両村ともにある。これは落合村の項でふれたように、天明二年の尾張領地方支配行政改革後、同領太田代官所が一般行政遂行の上で置いたもので、村を代表して尾張御領当局の指示をうけたり、折衝したりしたものであろう。「組庄屋」は資料でわかるように知行主的な庄屋のことを意味している。(茄子川村の中で釜戸方庄屋が落ちているのは何故か不明。)
両村とも「百姓惣代」が連署しているのは前述の阿木村と青野村の間でもみられたように山論の場合のためであろう。
(2) 兼帯庄屋 もう一つは千旦林村、千村平右衛門知行所(久々利方)の庄屋は儀兵衛であるが、儀兵衛は枝村中新井村の久々利方の庄屋でもある。こうした庄屋を兼帯庄屋という。この兼帯は文政元年(一八一八)から天保一一年(一八四〇)までは確かであるが、あるいは嘉永の頃まで続いたかもしれない。
(3) 当番庄屋 茄子川藤井日記(市史中巻別編 九四一~九四三頁)は慶応元年と同二年(一八六五~一八六六)の記録であるが、慶応元年七月一日の項に「当番御蔵入亀右衛門……」、同二年一二月六日の項に「当番御蔵入ニて当年風損ニ付 秋作取劣ニ付 小作掟年貢壱割半ト定ム」とある。亀右衛門は蔵入方(尾張方)の庄屋であるから「当番」の庄屋というようにも解される。実際に「当番」として庄屋名を記した文書は他にもある。この資料の七月一日の場合は入会地への約束背反の入込みであり、一二月六日は小作料の決定についてで共に村内では重要な事柄である。それを決めていることで、村内共通事項をとりしきったのが当番庄屋である。これと太田代官所が任命する惣庄屋と一致するものかどうかはよく分からない。