(1) 阿木村は一五八九余石で四枝村を持つ大村、飯沼村の四五九余石で一枝村をもつ村ともに岩村領では上郷に属する有力村である。
阿木村は庄屋二名、枝村のうち広岡新田には庄屋一名、他の枝村は組頭各一名であった。飯沼村は庄屋一名、枝村大野村も庄屋一名であった。
(2) 飯沼村の庄屋 先にあげた飯妻村法の署名は「亥八月 飯妻村庄屋 太郎兵衛」となっているように庄屋は、この太郎兵衛-伊右衛門家、ついで享保末にそれまで組頭をつとめてきた弥兵衛家にかわり、明和に入ってから、やはりそれまで組頭をつとめていた藤四郎家に移り、その後はその弥兵衛家と藤四郎家の両家でかわるがわる勤めている。(寛政三年=一七九一、に一時、枝村大野村庄屋が兼帯する年がある。)幕末近くになって、弘化四年(一八四七)から藤治家がつとめ、嘉永三年(一八五〇)からは、享保年中に百姓代を勤めその後も組頭などをつとめた与七郎家(与八家)が庄屋をつとめ、安政六年(一八五九)から明治維新まで吉村仙治がつとめている。
この飯沼村の例でみるように、近世初頭村つくりの中心的な役割りをつとめ、その後も村役人として指導してきた有力者が岩村領の場合、延享年中から安永にかけてその力を失ない指導者の交替がみられる。
(3) 広岡新田庄屋覚書 庄屋の仕事は村によって大きな違いはないと考えられる。ここでは岩村領内の村の例として広岡新田の場合をあげてみた。
弘化二年(一八四五)公用日記覚帳より
一 正月三日 年頭御礼のため
朝五ツ時(午前八時)麻上下(かみしも)にて御殿へ上る 御殿の御門は下駄はき通過は許されず御殿の御廊下へ脇差 扇を差事も相成らず(新参庄屋のこともある)
一 正月十日 手代廻村
御泊りニ付自分と組頭 坊事(庖事=料理)は源十が担当した(代官の代理として手代が新年の初巡村であろう)
一 正月十三日 商人鑑札
商人鑑札下附願の者は入念吟味して願出ずるようにとの廻状来り 廿一日迠に差出す事
一 正月十五日 堤井川除普請申請
堤井川除普請はよく吟味し書類を以て差出す様 溜池新築は水不足の程度を見定めて差出す様にとの注意あり
一 正月十一日 宗門帳作製提出の触 郡奉行所より
①宗旨改の季節になった 村中大小の百姓 寺社 山伏その他抱者 召使など一人も残さず吟味して今月中に寺社奉行方へ差出すこと
②奉公人は下人として差出すこと
③帳面仕立は粗末にしないこと
④表紙の村名の上に郡名をおとさないこと
⑤二月に越さないよう今月中に仕立てて持参すること
違背すると庄屋の落度となるからよく吟味せよ
一 三月九日より同廿三日に至る 宗門改
岩村領 土岐恵那郡内五〇個村宗門改のため寺社奉行(大山仙八郎)が村むらへ出張する。印形改めに他人を頼んで出席せぬ者もある由 左様の事のない様銘々印形を持参して受ける様 特に注意をうながすこと。巡村日割の通知
一 駕籠人足 四人 一 分持人足 一人 一 荷附馬 一疋 以上の通り人馬を村にて支度する。
一 上下(かみしも)三人 下目付一人
以上四人前の賄方を去年通にて申付る。休泊にて賄支度を命ずるが馳走はしないこと。
一 庄屋、組頭は村境迠罷出案内せよ
以上で当日は惣百姓、寺社、山伏一人も他行せぬ様にと厳重な通達、 (以下略)
その他に 苗木領と同様な庄屋の仕事として
①村内の廻村 山廻り年数回 ②年貢の割付 徴収 廻米の指揮 及び備荒のための籾の貯蔵について
③萱 楮 茶 わらびづけなど貢物の指図 ④道橋 村内神社 御陣屋(代官所)などの修築の計画と実施
⑤田植など作付けの報告などがある。
(4) 庄屋の引継 庄屋をはじめ村役人は退役願を出して許可を得、後役がきめられるが、その場合に引継ぐ目録がある。同じく広岡新田の場合についてみると、
庄屋引渡目録
当御代様 御条目 壱通
同御高札写 壱冊
同断近来諸事御法度書 五通
同断検地帳 弐冊
丹羽様御代御検地帳 三冊
同寛文三卯ゟ延宝六午迠御見取御覚 拾六本
同延宝七ゟ元禄十四 御免定 弐拾三本
当御代様元禄十五ゟ天保十五辰迠 御免定 七拾五本
御小検見御引帳 三拾九冊
砂入御引帳 三冊
天明四辰年砂入永引 壱本
寛政八辰道代引 壱本
天明六午~文政寅まで砂入起帰 拾本
御当代様鉄炮御法度書 壱通
差出帳扣 壱冊
御物成勘定仕上手形 百四拾本
御役人中様御印鑑 四拾弐枚
荒地改帳 弐冊
新林古林場写 三冊
御物成払帳 壱冊
村入用目録 壱通
庭帳
新林御改ニ付代官差上御請取 壱通
宜割付帳 壱冊
御蔵〆目録 壱通
御蔵鍵 壱ツ
御蔵桝 壱梃
農業全書 拾冊
穂立手ひき草 壱冊
〆弐拾九品
右者私儀庄屋役御免御願候処以願被仰付跡
役御自分江被仰付庄屋元ニ有来候諸帳面書
付等組頭百姓代立合相改引渡候如件
広岡村 藤左衛門 印
天保十五甲辰極月廿四日
同村庄屋
市右衛門殿