太閤検地

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このように土地調査としての検地は古くからあったが、単にそれだけでなく、以後の封建社会の基礎づくりとして、秀吉の行った全国的な検地は大きな意味をもっている。秀吉の検地を太閤検地といって、江戸時代を通じて、地租改正の時まで、社会の基礎をなすものであった。
 検地の第一の目的は、全国の土地を同一基準で算出したこと。第二は面積と同時に土地の使用別(田、畑、屋敷)を調べ、上・中・下・下々の等級によって、玄米で一反当たりの収穫量(石盛)を示したこと。第三は第二のためにも容量単位が京桝に一定され、中世の貫高制は消えて、「石(コク)」を用い、全村の収穫量は石高で表示されることになったこと、第四は田畑の作人名、場所(字名)、境界もしらべ、一村ごとに検地帳が作られたことである。
 美濃国のこの地方の検地は、天正一七~一八年(一五八九~一五九〇)にかけて、当時森氏の岩村城代の各務兵庫、大垣の役人、竹中源助が検地奉行として、実施されたというが、この裏付資料は市内には見あたらない。苗木領でいえば、遠山氏は苗木城を追われていた時代で、兼山城主森忠政の勢力下にあった。
 永田村[恵那市長島町]の「濃州恵奈郡内長田村検地御帳」には「天正拾七年拾月廿五日」とあるし(県史・史料編近世一)、猿子村[瑞浪市土岐町]の「猿子村指出帳」(享保六年)に「百三拾三年以前、天正一七丑の年、太閤様御検地」と記されている。これらによって恵那郡地方の太閤検地は天正一七年を中心に行われただろうと推定される。
 この太閤検地をもとにして、村の石高、領主の石高を美濃国としてまとめたものが「慶長六年丑年、美濃一国郷牒并寺社領小物成共」である(県史・史料編近世一)。
 これによって、中津川市内の関係分を上げると
 
 一 高壱万六千弐百石余         木曽衆のうち、
     四百八拾石七斗八升       恵那郡落合村
     千三百六拾八石六升       同 なすび川
     千三百三拾四石六斗三升     同 中津川
     七百七拾弐石          同 駒場村
     五百五拾弐石六斗弐升      同 仙田村
     四百五拾六石壱斗八升      同 てかの村
 一 高壱万五百廿壱石五斗弐升
                     遠山久兵衛のうち
     九拾五石九升          恵那郡上地村
     百八石三斗七升         同  瀬戸村
     九百九拾九石          同  日比野村
 一 高弐万拾三石四斗余         松平和泉守のうち
     千五百八拾九石六斗四升
                     恵奈郡あぎ村
     四百五拾九石八斗八升      同  飯沼村
 
 以上であるが、村名で気づくように「なすび川」「あぎ村」「てかの村」は平がな書き、また中津川となすび川には、何故か「村」がついていないし、千旦林村は仙田村となっている。領主高も何石余と表現されていて、後の江戸時代の同性質文書の表現と比べると、内容の書き方が、統一されていない。しかし、太閤検地の村高は、これで知ることができる。
 美濃一国郷牒にでてこない湯舟沢村については、上巻でも記述したが、太閤検地のことは、よく分からない。信濃史料によると、慶長一一年(一六〇六)山村良勝が湯舟沢村年貢仕詰状を、林六郎左衛門(馬籠宿)に渡したものがある。
 それによると、
 
  辰巳両年[慶長九・一〇年] 湯舟沢年貢
  用相究仕詰之事
 一 拾五石五斗八升者 辰ノ有米本分
 一 三十四石弐斗者  巳 有米 (市史上巻)
 
 となっている。