江戸幕府創設期の美濃にあって、幕府諸施策の推進者として活躍したのは、大久保石見守長安(岐阜に陣屋をおいたのは、慶長六年)で、中津川市に関係のある山村甚兵衛、遠山久兵衛も、その支配下にあって代官を勤めた。
彼の美濃支配の基本は関ヶ原戦以前では西軍方に属する支配者が多かっただけに、それらを除去して、幕府の勢力をかためること、木曽山、木曽川の一貫支配体制つくりなどであった。
慶長一四~一五年にわたって、長安が総奉行として検地を実施したのも、彼の支配基本の一つであったろう。この検地は「石見検」と呼ばれている。
県史は、この検地をまとめた検地帳について「太閤検地帳は表題も内容の記載も不統一であったが、石見検地帳は、それらが整備されている。だが分附記載形式をとっていないことは両者同様である。太閤検地帳には、一筆ごとの分米(収穫高)が記されているが、石見検地帳にはなく、麦田・藺(い)田・上田・中田・下田・上畠・中畠・下畠・茶畠などに位付けした田畑反別と、楮・桑の束数を載せている。この各位と楮・桑一束ずつの石盛定は検地竿入の翌一五年に、長安の手代鈴木左馬之助重春、和田河内守、平岡因旛守良和の連署をもって村々へ交付されている」とでている。ところで、この石見検の検地帳は苗木領福岡村の分が現存する[福岡町教委蔵]。
太閤検、石見検、の大略にふれたが、次に苗木領、尾張領(給人知を含む)、岩村領にわけて考えてみよう。