(一) 苗木領内について

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太閤検をまとめた「慶長六年丑年、美濃一国郷牒」、元和の「美濃国村高領知改帳」、正保二年幕命で美濃代官岡田将監らが提出した「美濃国郷帳」(県史・史料近世一)いずれも村高は太閤検で示されて、石見検は村高にでてこない。これは江戸幕府の領知朱印状は太閤検によっていることで当然であり、これを表高、朱印高、拝領高などとよび、この筋は幕末までつづいた。
 それでは、石見検はどんな意味をもっていたか。県史では苗木領越原村[東白川村]の例をあげて「要するに領主としては、行政支配単位である村の生産力を確定して、税収を確保すればよかったのである。」と述べて、年貢の確保にふれている。
 同じく「苗木藩政史研究」(後藤時男著)でも、石見検地高を苗木領は徴税対象としたことの重要な意義についてあげている。こうした立場で「文政五壬午年手控秘書 卯月吉日 大山氏」(苗木・大山家文書)によると、
 
 一 高千弐百壱石五斗九升六合
     物成米三百四拾七石三斗八升弐合
     免弐ツ八分九朱壱厘
            日比野村
 一 高百四拾六石七斗壱升壱合
     物成米五拾弐石七升四合
     免三ツ五分四朱九厘
            上地村
 一 高弐百六拾四石八斗三升五合
     物成米八拾五石
     免三ツ弐分三朱五厘
            瀬戸村
 
 と中津川市内の三か村をはじめ苗木領内の各村の「高」「物成米」「免」(後述)をあげている。ついで上田・中田・下田など地位別の石盛をあげている。前記三か村については、
 
  日比野村、瀬戸村、上地村
 一 上田 十四     一 上畠 十二
 一 中田 十二     一 中畠 十
 一 下田 十      一 下畠 八ツ
 一 屋舗 十四
 
 となっている。その後につぎの文書がつづく。
 
 正徳六年(享保元年)丙申年六月朔日
 洪水御領内水損検地被 仰付□候付 慶長年中御検地并 平岡因幡守様 和田河内守様 鈴木左馬之助様 御差図ヲ以両様引合 御領内中相改之不足 相記者也
  享保元年丙申年九月
         御勘定頭 陶山丈左衛門
         平勘定  山中平五郎
         郡代   横山佐五右門
 右帳之通可致相定者也
         長沼八左衛門
         陶山直右衛門
         安田与平治
         纐纈垣右衛門
         棚橋□□□□
 
 文面の大要は、正徳六年(享保元年、一七一六)六月に洪水があって、領内に水害地が発生したから、慶長年中の検地帳と、同検地のおり鈴木左馬之助ら三名が領内の村に出した石盛表の両者を引き合わせて、領内中の不足を調べなさいと、勘定頭らが出したものであるから、ここにあがってくる「高」「物成米」「免」は、石見検を基礎としていると考えられる。
 それでは太閤検の場合と石高の差はどれ程か、はっきり太閤検と肩書されている正保美濃国郷帳と石見検の場合を、日比野、上地、瀬戸の三か村について比較したのが、Ⅱ-1表である。

Ⅱ-1 日比野・上地・瀬戸三か村にて、太閤検と石見検の比較

 この表でわかるように
○三か村とも石見検の方が石高が高い。日比野二〇〇石余、上地五一石余、瀬戸は二倍近い一三一石余の増加である。
○年貢収納の基本には石見検の方が苗木領遠山家には有利である。Ⅱ-2表に苗木領の両検地比較表をあげたが、これの合計をみると、石見検の方が約一二一五石増加している。しかし、どの村も石見検が多いわけではない。

Ⅱ-2 苗木領全体の表高(太閤検)と石見検高の比較

 苗木領が年貢収納の基本に石見検を採用した証を、もう一つあげると、先にあげた文政五年の「手控秘書」に覚として、年貢収納率の免(後述)について
    覚
 一、免之事御定帳ニ □(いく)つ何分何朱何厘候得共古田之分ハ正保二年酉二分上り加ヘ相改其外ニ午上リ何の上りと有之分 穿鑿之上可被斗事
 とあって、「免」について御定帳に何分何朱何厘と書かれているが、古田については 正保二年(一六四五)に二分、その外については 寛永一九年(一六四二)にも上がっていることを、よく考えて収納せよ、という意味であろう。
 苗木領では石見検後の正保二年、寛永一九年に「免」があがったことであって、「免」の基に石見検があったことがわかる。