太閤検 高千三百三拾四石六斗三升 尾張大納言殿領 中津川村[伝馬宿桧山雑木山草山小川柴山] 内 [千八拾七石九斗五升八合 田方 弐百四拾六石六斗壱(七)升弐合 畑方] |
とでている。木曽衆他の五か村も同様に村高は太閤検によった。それでは年貢収納について石見検を重視したかというと、そうではなく、年貢収納は後の寛永五年(一六二八)から貞享二年(一六八五)にかけて、知行主が独自に実施した検地(内検)がもとになっている。
中津川市内の木曽衆知行の各村に残る検地帳、水巻(後述)の類は、この時のものである。石見検については、岐阜市史は「尾張藩は、石見検以前の検地のない村、または大久保長安が慶長一八年(一六一三)四月二五日に没するまでに公文書に用いていたもの以外は、元和元年(一六一五)より石見検を使用していない。」として、石見検が使用されなかったことをいっている。尾張徳川家給人の木曽衆についても、恐らく同様で、使用しなかったとみられる。
「元和弐年美濃国村高御領改帳」(県史・史料編近世一)の中で「宰相様(尾張徳川家)へ美濃之内渡申分」のうち、木曽組の衆として高壱萬六千弐百石八斗三升をあげ、その中に落合、中津川、なすび川、駒場、千駄林(千旦林)、てかの(手金野)の六か村の村高が記載されているが、いずれも太閤検と記されている正保郷帳と同じ村高である。ただ落合村は四八〇石七八と四八〇石四一で若干の違いがあるが、その理由はわからない。
その後は「正保三年(一六四六)四月二六日、大君検、田地御改有之」(中川旧記)のように尾張領の検地(内検)は、どの程度のものか分からないが、実施され、ついで年貢の基本となった貞享検地とつづく。
[参考]
① 尾張国内では慶長一三年(一六〇八)に伊奈備前守忠次ら三名が命ぜられたという「備前検」によって、きめている。
② 石見検と太閤検を尾張領の村で比較してみると、次のようになる。
村名 太閤検 石見検
大井村 五一二石六四〇 八五九石〇五三
川上村 一八〇石〇〇〇 出目無[検地による増加分]
付知村 二八四石〇八〇 出目無
加子母村一一八九石〇五〇出目無
以上のようで、大井村以外は石見検の意味はない。