①阿木村、飯沼村とも村の表高は太閤検によって、明治までつづいている。享保改めの時に若干ちがうが、これは何か別の理由であろう。このことは石見検が採用されなかったことを意味する。
Ⅱ-3 阿木村・飯沼村の村高と岩村領主
岩村町史は「この高(正保郷帳、太閤検)が基本となって、江戸時代の表高として取扱われ、その後の開墾などによって増加した分は、新田高として別にして 別の取扱いとなる――以下略」としている。
②慶長郷帳、元和領地改帳の阿木村は「あぎ村」「あさ村」といっているし、飯沼村は飯妻村、飯浪村になったりしている。こういう例は阿木、飯沼に限らず、これらの郷帳類のあちこちにみられることである。
ただ飯沼村を飯妻村と記したことは、現存する正保元年(一六四四)の検地帳に「飯妻村検地帳」とあるから、丹羽時代に入った頃、事実、飯妻村と記したと推定される。元禄一六年(一七〇三)の差出帳には飯沼村になる。
③岩村領としては、寛永二〇年(一六四三)阿木村、翌正保元年(一六四四・幕府郷帳作製提出を命じた年)に飯沼村の検地(内検)を行っている。
この飯妻村の検地では、太閤検を下まわってしまい、高一〇石につき、二・九石あて割り掛けして、太閤検(御前帳高、拝領高といっている。)にあわせている。この内検が年貢収納の基本になったものであろう(第二節参照)。