(四) 湯舟沢村について

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江戸時代に入って、慶長一八年(一六一三)に木曽の郷帳が調製されている。これによると木曽二八か村(二九か村のうち柿其村は年貢米記入なし。木曽は後に三二か村となる)の合計で、年貢米一六八二石五斗五合としている。村高はついていない。つまり木曽は無高であるから、元和元年(一六一五)八月に、尾張領となっても、尾張徳川家の領知高の増加にはならない。
 この年貢米は慶長七年(一六〇二)~同一七年(一六一二)の一〇か年平均をとって年貢米表高としたものである。
 湯舟沢村の年貢米三〇石、馬籠村四〇石で共に米年貢のみで、木年貢の榑(くれ)、土居はない。ただし、この米年貢は郷倉、または山村氏の蔵に保管されていて、木年貢が納付されると、その下用米として下げ渡された。だから、湯舟沢村は年貢米を出すことで下用はなかったといえる。つまり米年貢と木年貢の二つが並列してあったのではないと考えられる。
 このことは正保二年(一六四五)の絵図郷帳に木年貢を領高外として、米一六八二石〇五の代わりとして、木年貢数が上げられていることからもわかる。なおこの絵図の信濃国について、木曽が筑摩郡の外においてあったことを附記しておこう。
[参考]
湯舟沢村について(木曽福島町史)
「木年貢を納めない九か村の内、馬籠、須原、福島の三か村は村の地域も狭小で、山林が少ないから木年貢を出したくても不可能である。山口、三留野、妻籠三か村は幾分の山林はあるけれども、是亦地域狭小で、其負担は出来難い。奈良井、贄川、両村は文化系統も違い、職業の関係上特殊な年貢制度であった事はすでに述べた通りである。
 唯湯舟沢村は相当な山林を持っているが、此村は木曽最南の村であり、出材容易の点から、他の需要材として、保有すべく保護された関係があろうと思われる。方広寺の巨材、聚楽邸の用材などから考えて見て了解出来ることと思われる。」

Ⅱ-4 木曽郷町にみる湯舟沢などの年貢(木曽福島町史より)