(一) 山村甚兵衛知行分について

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美濃覚書から、江戸初期における山村方の検地年をあげると、大略次のようになる。
 年 村名 事項 現在
 寛永年中 久々里村内 立合内検 可児
 寛永五年 羽崎村本郷 内検  〃
 慶安四年 日吉孝道 新田改 瑞浪
 明暦元年 久々里大萱 内検 可児
 同年 大湫村 内検 瑞浪
 天和三年 千旦林之内 検地  〃
 貞享元年 中津川村 検地  〃
 万治三年 大久後村 役人名のみ 御嵩
 寛文五年 美佐野村 内検 御嵩
 延宝二年 日吉孝道 検地 瑞浪
 天和三年 正家村 検地 恵那
 同年 茄子川之内 検地 中津川
 貞享二年 手金野村 年、役人名のみ記入 中津川
 同年 川上村 検地  〃

 寛永年中から始まって、手金野村の貞享二年まで、およそ六〇年間にわたって実施されている。このなかで、内検、検地、立合内検の三つに実施事項名のいい方が分かれている。立合内検の立合とは、村が入相支配になっている場合であることはすぐ分かるが、内検と検地の表現の違いは、何故だろうか。内検をあげている羽崎村本郷[御嵩町]については、
 
 一 寛永五辰九月内検 千村九右衛門 丸山久右衛門、沢田太左衛門、川合長右衛門、村井孫右衛門
 
 検地とあげている茄子川村之内では
 
 一 天和三年亥十月検地 大脇第右衛門 二村傳右衛門 沢田傳六 磯□文左衛門 田中善兵衛
 
 となっている。あげられている検地役人名は、丸山久右衛門は、中津川の代官を勤めたこともあるように、山村甚兵衛の家臣ばかりである。両者とも年貢確保のための内検であると考えられる。それを二つに分けて書いている理由は分からない。ただこれらの中で、比較的早い時期に行われた久々利代官所周辺が、内検、比較的おそい時期の中津川周辺が検地といっている傾向だとは言えそうである。
 次に茄子川、正家、千旦林、手金野、中津川、落合など、山村方知行所の山村氏による検地は、前述した天和三年~貞享二年が初めてであろうか。
 寛文二年(一六六二)には、中津川第一用水が出来ているし、また山村氏が慶長六年に拝領してから、貞享年中頃までには八十余年が過ぎていることを考えると、間がありすぎる。
 新田による増加は当然考えられるので、天和~貞享以前に、土地再調査程度はあったであろう。これについて、中川旧記には簡単ではあるが次のように記されている。
 
 検地 慶安三庚寅二月  五十年目
 同  延宝二甲寅二月  廿五ヶ年目
 同  貞享元甲子二月  十一ヶ年目
     水巻ハ四月五日付
 
 慶安、延宝の検地の内容は不明である。五〇年目とは慶長六年の拝領からを示し、二五年目とは慶安から、また一一年目は延宝からをそれぞれ示す。
 中津川村以外の四か村にも、同様に検地があったのであろう。(落合村は貞享検地なし)次に検地ではないが、江戸時代初期の田畑改め調査は、前節であげた寛永二〇年(一六四三)の山村氏御達しによる高、田、畑、山林の調査と正保四年(一六四七)の尾張領の知行目録つくりに関係した調査がある。後者では、
 
 右村高田畑相改野山
 大積り書上ヶ申候 仍而如件
 千村平右衛門    吉田長右衛門
 山村甚兵衛内    島崎與右衛門
 正保三年 戌之四月廿六日
 
として、Ⅱ-5表のように村勢をあげている。

Ⅱ-5 正保四年木曽衆関係村高など改め書上げ