検地まで

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木曽谷中の田畑に検地を行なったのは享保九年(一七二四)、木年貢(槫(くれ)。土居(どい))は木曽山でも、その伐採が困難になってき、その上、川狩による失木保障の榑、土居も量が重なり、遂に享保八年(一七二三)「向後御年貢榑并土居不残御免、年貢米上納」の通達が出された。
 享保九年三月五日、尾張表御国御用人は、山村家用人桑原佐左衛門を召して、木曽宿並に村の様子、田畑検地に入り、くわしく相改めることを申し渡した。
 同年三月七日、福島の山村役所に木曽谷中の庄屋、問屋、年寄を召集して「検地指令」を伝達した。この時の「谷中へ申渡覚」が木曽福島町史にあるが、それによると、
 この中で 今度検地を仰せ出され、役人中が村々へくるが、心得違いをして訴訟を申し出るようなことはしてはいけない。役人中が廻村の時は 委細に田畑を案内して、少しでも紛わしいことがないようにせよ。など申し渡すと共に、
 ○享保六年(一七二一)巡見の時、書付けた年貢上納高
 ○毎年の年貢高
 ○古来年貢を免許された土地、寺社領、庄屋給、定使給米、往還道代を書き出すこと
 ○代官免許についても書き出すこと
 以上四か条を申し付けている。
 こうして、同年三月一五日付で、検地役人の一人戸田八左衛門の手代若井貞右衛門、安田新右衛門名で、名古屋より落合、湯舟沢迄の宿々の問屋、庄屋へ検地奉行名と、その通行について次のように指示している。