検地奉行

266 ~ 267 / 922ページ
享保九辰年三月 湯舟沢ゟ御検地御奉行様方様子書付触状写(神坂・島崎家文書)によると、検地奉行一行と、その継立人馬は次のようである。
 
 一 本馬壱疋 三人問屋手がた
       内         大村源兵衛
   人足五人 弐人分村
 一 人馬  右同断      成田庄右衛門
 一 本馬壱疋 三人問屋手がた
       内        小沢忠左衛門
   人足七人 四人分持
 一 本馬壱疋 三人問屋手がた
       内        市川甚左衛門
   人足五人 弐人分持
 一 人馬  右同断      戸田八左衛門
 一 人馬  右同断      八尾市左衛門
 一 本馬弐疋 三人問屋手がた
       内        江碕金左衛門
   人足四人 壱人分持
 一 人馬  右同断      堀口又四郎
 一 本馬弐疋  成田庄右衛門頼(たのみ)手代弐人
 一 本馬三疋  小沢忠左衛門頼手代三人
 一 本馬三疋  市川甚左衛門頼手代三人
 一 本馬弐疋  戸田八左衛門頼手代弐人
 一 人足壱人  押之者 壱人
   本馬〆拾八疋
   人足 四拾壱人
右は就御用明後一七日朝六ツ時宿元発足木曽湯舟沢江御越被成之間宿々相違無之様御申付可有之候 尤何連も証文ニテ有之候間 左様可之相心得以上
     戸田八左衛門代若井貞右衛門
      同 断   安田新右衛門
名古屋ゟ(より)落合湯舟沢迠
            右宿々問屋
                 中
               庄屋
 
 これによって湯舟沢村をはじめ木曽一帯検地に向った役人名、名古屋城下出発が三月一七日朝六ツ時、一行の人馬継立の数などがわかる。
 この知らせは湯舟沢村へ三月一七日に到着した。湯舟沢村庄屋は、検地役人が名古屋から来ることで不安いっぱいの木曽谷の宿と村へ、早速同日付で、役人氏名、宿泊準備の大略を知らせると共に「御奉行様方様子相知レ申候ハバ段々(だんだん)可申遣候」と連絡している。この連絡は この日のうちに、福島宿及び周辺の村まで廻状として、まわっている。
 大村源兵衛奉行をはじめ検地役人一行は、善師野、今渡から中山道をへて、三月一九日湯舟沢村につき、一二軒に分宿した。
 大村源兵衛 成田庄右衛門 小沢忠右衛門 市川甚右衛門 戸田八左衛門 八尾市左衛門(押共に)、江碕金右衛門 堀口又四郎の八役人はそれぞれ壱軒に分宿し、その手代たち一〇名は、二~三名に分かれて湯舟沢村に宿をとっている。(神坂・島崎家文書)