検地起請文

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検地仕様、検地掟の条々について、検地実施の役人たち、村役人、および村内案内の村役人から、起請文といわれる誓約書をとる。検地役人の起請文は一一か条からなっている。
 それを列挙すると、次のようである。「 」の中は原文のままである。
一 検地実施中はよく協議して正路にすすめる。
一 お上を大切に考え、お上の御威光をもって、大物ぶった振舞いはしないこと。
  付として「百姓より振舞礼物何成とも受用申間敷事」。
一 村の中で「好みひきの者ニハ依怙仕間敷候事 また意根之者共非分申間舗候事」として百姓を平等にあつかうこと。
一 「壱組之内(検地一組四名)別宿取申間舗事」として、四人は同じ宿で行動を共にすること。
一 「御勘定之時灯火油之儀 其郷夜々に行灯にて請取り」を遣し申すべきで、一度に受取を遣してはいけない。
一 百姓に台所をさせてはいけない。付その村にない肴などを頼んではいけないこと。
一 一組(検地の組)の内でも、他の組でも悪いことをしていると、聞いたら隠さずに届けること。
一 「其郷ニテ売物買物致申間敷事」。
一 「女之儀竪法度之事 仮遊女ニ候共買申間舗事」。
一 一組のうちよく談合すること、「頭申事聞不申我儘(わがまま)申間敷候 但組頭ニ候共 悪敷事致候ハバ帳奉行方遣其行可申候」として組合談合、頭命令をきくこと、組頭が悪ければ帳奉行に申出ること。
一 出村の場合に草鞋(わらじ)を要求してはいけない。
 これら一一か条は、百姓への差別(依怙)、組合四名は同宿、行灯の油代、女遊び禁止、売買、組の協力、出村の場合の注意など、比較的具体的な事項について、「右の条々相守」としている。逆にいえば、こういう状態もあったためとも考えられる。以上は検地縄打ちする側の誓約事項である。検地を受ける百姓側にとっては、毎日の生活を左右する文字通り「身上定生死ノ根本」の検地であるから、少しでも百姓に有利な結果となるように考えるのは当然であろう。
 そこで考えられる方法は、隠し田畑をつくる。賄賂で緩く打たせる。道だといって引くようにさせる。堤、川除の関係地だといって除くよう働きかけるなど様々であろう。
 それらを防ぐためには、村役人をはじめ百姓たちから誓紙をとらなければならない。その一例が次に示すものである。湯舟沢村の村役人、百姓たちも、こうした誓紙を提出したであろう。
 
案内之者前より縄打衆誓文書
  起請文前書之事
一 今度御検地御案内仕候壱円之所成とも引落申間敷候 若落地御座候ハバ 品々可申上候ハバ 御帳出来次第めいさいに田畑引合少し所成とも隠居候ハバ 何様にも曲事ニ可被仰付候 再寺社領□共々次第御改被成候 先年従御公方御付田地之外少し所成ともまぎらかし申間敷之事
   (大意=御案内する上は引落はしません。若し落地あれば申上げて帳出来仕上引合をします。若し隠しおれば どんな罪にされてもかまいません。)
一 今度御縄打ニ御引被下候道代之分少も以来迠せはめ申間敷候被仰付候通り急度作置可申候、再井堀□堤添今度御引拾至分何時御広し共違乱申間敷候 若偽申候ハバ田地御改曲事可被仰付候事
   (大意=今度縄打ちから御引きくださった道代分は、せばめることはしませんし、仰付られた通りに急度作り置きます。また井堀、堤で、今度御引くださった分、いくら広しといっても乱すようなことはしません。若し偽りをいえば、田地を御改めになって罪にされても、かまいません。)
一 御内衆背御法度何成共悪敷事被成候節時可申上候如此改差上申候上ハ少も相違申候ハバ何様ニも曲事ニ可被仰付事
   年号月日                        名主
                               百姓
 
 以上の外に、帳奉行が案内の村役人(庄屋)から取った手形文書によると、
①野帳よりまとめて、清帳ができたところで読合せ改めをしてから、百姓に見せるわけで、それを百姓が検討して、帳奉行に返す時に、帳奉行から検地の落としはなかったか、総百姓立合って検討したか、縄打役人に落度はなかったかなど尋ねたことについて答える形でまとめられている。
②つまり「検地仕様」や「検地掟」が百姓側からみて守られていたか、どうかを尋ね、後のことを考えて、百姓側から手形(誓約書)をとったものであろう。
 いずれにしても、享保の木曽各検地は、木曽谷に住む百姓にとっては大問題で、このことは馬籠村役人が直ちに、検地の様子を木曽谷中に連絡をしていることからもわかる。
 この中で、検地役人の宿所へ見廻りに出かけたところ「御内証御物語御座候」と記されているし、どの村も「問屋年寄一人宛御宿へ御見廻可被成候」と連絡したり、「御頭様」について、「此方能き様ニ相見申候」とか記しているように、村役人、百姓側は検地役人の気持をつかみ、これをやわらげ、村と百姓の不利にならないようにするため、気をつかっていることが推察される。
 こうして、湯舟沢村にはじまり、四月二一日は上松、二二日は岩郷[木曽郡木曽福島町]と進められていった。毎日人足一二六人が使用された(木曽福島町史)。この調査の結果出来あがったのが「享保九甲辰年七月信州筑摩郡湯舟沢村検地帳」(一七二四)である。湯舟沢村は三冊にまとめられた。