内付百姓

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⑦の一筆が示す「権兵衛内小兵衛」は、譜代下男、下女のように、一家内にいて、一打百姓として宗門帳にでていないという深い隷属ではなかろう。
 さて、中津川村貞享水帳(田分~町、本郷)から、こうした隷属百姓をもつ者の数をあげると、町、中村、実戸、子野、上金、北野で二三名、隷属している百姓数は、延数で五九名となる。その中から、二~三名をあげると次のようである。
 
 隷属百姓所有者名  「内付」百姓名
 (1) 権兵衛     彦平 小兵衛
 (2) 丸山久右衛門  伝蔵 万五郎
 (3) 堀尾作左衛門  左五兵衛 九郎右衛門 角左衛門 弥次兵衛 権助
 (4) 次郎右衛門   休庵 彦右衛門 吉平、七助 太左衛門 七兵衛 源左衛門、善平次 金十郎 久三郎 勘九郎 つゆ
 
 (1)は問屋、本陣家 (2)、(3)は知行主山村甚兵衛の中津川代官を勤める地侍系譜の者、(4)は貞享年中は問屋役の家、というように、中津川宿村の有力者に隷属の場合が多いのは当然である。

Ⅱ-11 中津川村高寄帳

 また、地域別に隷属百姓所有者をみると、町6、中村8、実戸5、上金2、北野2となっている。隷属百姓所有数では、一人持が二三名中の一一名で半数近い数を占めており、二人持が九名、四名持が三名となって、とびぬけて多いのは、前記の(4)の次郎右衛門の一二名である。個別に考察することとして(1)をとりあげてみると、
 
 権兵衛名請人分米   五一石一斗七合
 権兵衛内小兵衛分米  二石三斗七升六合
 同内彦平分米     二石九斗四升一合
 その他分付      五石九斗五合
 
 合計六二石三二九となっていて、権兵衛全体から「権兵衛内…」の分米は五石三斗一升七合で、一割程度にしかならない。この検水帳の中には他に彦平、小兵衛が名請人になっている分は見あたらないから、二名で分米五石余、反別五反ということになる。
 なお宝暦六年(一七五六)の「中津川村高寄帳」では(市史中巻別編)市岡長右衛門(権兵衛家のこと)分五五石四斗九升七合の他に「分付」として彦平分四石六斗二升三合、小兵衛分三石五斗九升二合の合計六三石七斗一升二合となっている。貞享の分は田のみであるから、数量比較はできないが、ただ「内彦平」「内小兵衛」が「彦平分長右衛門」「小兵衛分長右衛門」と彦平、小兵衛が隷属表現になっていないことを指摘したい。
 [参考]
  (1)検水帳より権兵衛関係分
   権兵衛名請分 二七筆 五一石一〇七 柳の坪、大田、花の木、かいとなど
   庄助分権兵衛 二筆  五石九〇五 清水がいと
   権兵衛内彦平 一三筆 二石九四一、寺の下、赤だい、ちょっかい嶋など
   権兵衛内小兵衛 九筆 二石三七六 山の神、四っ目川原など
  (2)弘化二年(一八四五)萬覚書(市岡本陣家)によると、同家扣田地高として
    三七石六九〇 御蔵斗高
    四四石六〇〇 内取高
  合八二石七二〇(合計があわないがそのまま)外ニ七石之内五石一斗六升六合ニ勺九才御合分ニ割引之分
  と記載されている。
  次に(3)の堀尾作左衛門分について考察してみよう。堀尾作左衛門は、手金野吉田旧記によれば、手金野松源寺開基であって、手金野吉田家の先祖とは姉、弟の関係であり、はじめは雲州[島根県]にあったが、文禄四年(一五九五)中津川にきて、「屋敷ハ横町角西ノ見付 堀尾氏ト並屋敷也」(中川旧記)とあるように横町あたりに居を構えていたと考えられる。堀尾作左衛門家は万治三年~寛文一三年(一六六〇~一六七三)の間、中津川代官、その後享保~元文にかけても代官をつとめている。
 ここにあげた検水帳の奥書署名にも一番おわりに堀尾作左衛門がでている(市史中巻別編)。また免許地の中に「堀尾作左衛門 屋敷二反四畝六歩 分米二石九斗四合」がでている。以上から堀尾作左衛門は、中津川に住んだ中津川支配の一人であったと考えられるが、それに隷属する百姓が五名いたわけである。この五名について、反別、分米などを表にしたのがⅡ-12表である。

Ⅱ-12 堀尾作左衛門内百姓一覧表(貞享検地帳)

 なお、この内百姓らの田の所在は、かいと、袖の子、このミかいと、五反田、清水、上渡場、竹の下など、一〇か所の字にわたっていて、現在の清水町付近から、中村にかけてであろう。
 時代は下って、宝暦六年(一七五六)の中津川村名寄帳には、堀尾分としては出ているが、この時点では田は他の者に渡っている。それをあげると、分米でいって、上ハ町、岩井宗七郎八石五升、西生寺二石九斗四升、四郎兵衛九斗一升二合、長兵衛五石四斗六升、七右衛門四石二斗七升九合、和七一斗六升八合、下タ町、半兵衛一斗二升の計七名の者になって、合計高二一石九斗二升九合となっている。<堀尾作左衛門は可児郡上之郷美佐野村に百石の給所を与えられていたが、元文元年(一七三六)召上げられた-美濃覚書。なお御両家・九人衆覚書では高百五拾石(同心)とあり。>
 (2)にでている丸山久右衛門については、貞享検地帳の〆の部分に「屋敷弐反弐畝弐拾四歩 分米弐石七斗三升六合免許丸山久右衛門」とあるように、この時点では中津川村内のいずれか判明しないが屋敷をもっていたと考えられる。
 貞享二年に終わる一連の山村知行所内の検地では、その役人として、久々利村(寛永年中)、羽崎村(可児郡、寛永五年-一六二八)、日吉本郷白倉内検(寛永一五年-一六三八)など寛永年中の検地を手がけているし、中津川の代官を勤めたこともある家である。丸山久右衛門の内百姓は、伝蔵、万五郎の二人で、伝蔵が反別一反二畝、分米、一石二斗五合、筆数六、万五郎が一畝一二歩、分米二斗三升六合、筆数二、合計一反三畝一二歩、分米一石四斗四升一合、筆数八となっていて多くはない。
 宝暦六年の名寄帳には、この丸山久右衛門関係については「御川除人足割方」を除く分のなかに「御代官附、丸山分共」として、一五石余りを書きあげているところに出てくるのみである。
 地侍的存在から、山村氏(木曽方)の給人になった堀尾、丸山両氏に隷属していた「内百姓」は、百姓とはいえ、武士の家臣的な性格を持ち合わせていたと想像できるから、有力な農民に隷属していた者とは、異なっていたであろう。