御代官付分

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名請人分類⑪である。「代官付原茂左衛門内」としてあるもので二筆あり、字名は共に「ぢげんな」地位は下田、沼上田、反別は一畝一五歩と六畝二一歩、分米は一斗五升と八斗七升一合であり、二筆とも彦兵衛名である。
 木曽旧記によると桑原勘兵衛とそのあとをついだ原茂右衛門が代官のとき、堀尾作左衛門、丸山久右衛門は村分代官をしていたようであるとなっている。この貞享検水帳の奥書署名をみると、終りから二番目に原茂左衛門、終りが堀尾作左衛門になっている。
 原茂左衛門は延宝九年(一六八一・天和元年)~元禄五年(一六九二)の間で中津川代官を勤めている。この間に貞享検地が行われたから「代官付原茂左衛門内彦兵衛」となったのであろう。つまり代官諸費のための田である。次に名請人の彦兵衛は、上金住の彦兵衛で反別計約五反四畝、分米計五石八斗八合をもち、さらに彦三郎(反別約四反七畝)という隷属百姓をもつ、有力百姓で、屋敷地も所有している小庄屋であるから、上金小庄屋が代官田の世話をしていたことがわかる。
 宝暦六年の名寄帳では、上ハ町に「御代官附分替地」となっているから、代官付分田がかえられたのであろう。