貞享検水帳(田分、町、本郷分)から「誰分誰」の分名請人名を探すと、酒屋孫兵衛、五左衛門、なべや惣右衛門、大津屋善左衛門、善三郎、善吉、三右衛門、宗泉寺、伝六、伝六郎、加兵衛、喜三郎、八満田作人、太左衛門、孫七、安右衛門、小左衛門、新三郎、(北野にある新三郎の意で、前記説明と異なるもの)、庄七(これも実戸にある庄七の分の意)、長蔵、それに本陣、問屋家の権兵衛である。
検水帳に記載名請人数は推定二三〇名であるから、およそ八%を分名請人名が占めていることになる。この中から、大津屋善左衛門、善三郎の二名分を表にしたのがⅡ-13表、Ⅱ-14表である。
Ⅱ-13 大津屋善左衛門の反別・分米(貞享検地帳)
Ⅱ-14 善三郎の反別・分米(貞享検地帳)
善左衛門は本人名請分が二・八%であるのに対して、善三郎は本人名請分四四・八%で、本人分の割合に大きな差がある。大津屋善左衛門は、貞享検地より二二年前の寛文二年(一六六二)に、近江国より中津川に移ったといわれる家で、以後中津川宿の有力者の一員、代表的な中津川商人として活躍するが、その大津屋の初期の土地所有形態を物語っている。
善三郎家は明智光秀幕下にあったと伝えられる家で、江戸幕府成立以前の天正年中より、中津川に住み、貞享検地の善三郎は、三代目にあたり、中津川宿の問屋役などを勤めているし、妻は山村家臣の娘、妹は苗木領遠山家の家臣に嫁している。享保以後は、中津川村の庄屋役を勤めた家で、貞享検地の時に、すでに安定した地盤をもっていた有力者と考えられる。このことは分米計三二石余で、前記権兵衛と共に多い方に入る。
これが宝暦六年名寄帳では、善左衛門家(嘉兵衛名となる)二二石四斗余、善三郎家(九郎兵衛名)一六石四斗の高となっている。