検地と地押

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大久保長安が慶長一四~一五年にわたって実施したといわれる「石見検地」が、苗木領内の年貢徴収高として、強い影響を与えていることはすでに述べた。ここでは苗木領だけの検地(内検)についてあげる。
 岩村領が享保七年(一七二二)に新田畑検地として実施した「寅検地」があるが、苗木領でも、明暦三年(一六五七)より延享四年(一七四七)の九〇年間に新田開発、田直しなどの増年貢をしている。「定納発方上免并定納之内永引覚」(植松家文書)によれば、一例として
 
 一 壱石八斗四升六合六勺
 犬地村ニテ新井を開 畠ヲ田ニ直シ申上 年貢百姓拾人より延宝三(一六七五)卯之秋定免ニ納
 一 三石弐斗
 蛭川村ニテ新田年貢百姓六人より見積り 延宝四(一六七六)辰ノ秋より定免ニ納ル
 一 壱斗七升五合壱勺 日比野村
 内壱斗四升六合弐勺 田中僚右衛門津戸上ヶ田地 狩宿伝八郎納 新年貢
 一 米三拾弐石九斗五升弐合三勺
 享保一五庚戌秋より村々新田畑切添 新家年貢(二八か村名と高は略)
 
 などくわしくあげている。同文書の中から検地に関係のあるものを、もう少しあげてみると
 
 一 米八石壱斗五升七合八勺 貞享元(一六八四)子秋
 柏本村田地狭ク百姓続不申由 改ニ付惣検地の上元引
 一 米六斗四升壱合 宝永元申秋
 田瀬村百姓依頼検地之上永引
 一 壱石四斗弐合壱勺 同年
 駒田夫兵衛屋敷払 同地検地之上ニテ増年貢 日比野村平八郎より
 一 弐斗壱升九合九勺 宝永三(一七〇六)戌秋ゟ
 坂下村町組百姓八人論所ニ付検地之上増ス
 一 壱斗四升壱勺   同年
 福岡村庄屋田地百姓地ニ成検地之上増ス
 一 米拾石五斗八升三合 正徳四(一七一四)午秋ゟ
 坂下村三組田畠水損ニ付検地之上同秋ゟ永引
 一 米壱石六斗四升四合七勺 享保元申
 犬地村上田村新田見取年貢場所検地之上年貢高場ニ付永引
 一 拾六石五斗七升八合三勺  同年
 犬地村上田村検地之上百姓二五人分増年貢
 一 米七石七升九合七勺    同年
 犬地村のたこ分享保元申年検地被仰付年貢高場ニ付□高同秋ゟ永引
 一 米六斗九升六合五勺    同年
 見取年貢米納米之所境論有之ニ付検地之上年貢高場ニ□究ニ付犬地村納ニ付享保元秋ゟ上田村永引
 一 米壱石五斗
 柏本村庄屋半右衛門田地枚数年改ニ付検地被仰付同秋ゟ永引
 一 米拾石弐斗五升七合四勺  享保三(一七一八)戌
 坂下村町組鮎沢百姓八人井水論所検地之上増年貢
 一 米弐石八斗弐升八合五勺  享保三(一七一八)戌
 坂下村町組鮎沢百姓立合井水論所ニ付検地之上永引
 一 米壱石六斗九升八合九勺  同年
 福岡村庄屋孫六田地狭改ニ付検地之上同秋ゟ永引
 一 米九石四斗六升弐合七勺  同年
 福岡村庄屋田地百姓地成検地之上同秋増年貢
 一 壱石三斗四升八合弐勺  享保四(一七一九)亥
 町市右衛門願付山之田田地と引替付仰付検地之上改納新秋年貢(日比野村)
 一 三石九斗八升弐合四勺  享保六(一七二一)丑
 柏本村百姓願付検地増年貢
 (同様のもの宮代村(七升四合八勺) 大沢村(三石一斗九升五合五勺) 須崎村(六斗六升八合一勺)にあり)
 一 米三石弐斗七升九合九勺
 享保十三(一七二八)戊申秋ゟ村々永引
 内
 一 米三斗六升四合三勺 享保一四(一七二九)酉春
 田嶋村地押被仰付節田畑反歩相違有之ニ付 百姓三人、同一九甲寅吟味之上永引
 一 五斗壱合九勺 田中□右衛門津戸田地年々旱損付検地
 一 壱斗壱升六合 幸(纐)纈甚右衛門屋敷年貢永引
 〆六斗壱升七合九勺 日比野村
 一 壱石三斗九升弐合弐勺
 坂下村町組和倉伸助田地高斗入検地
 一 拾五石五斗八升五合弐勺 享保一七(一七三二)子坂下村下組下嶋百姓五人依頼地押之上増年貢
 一 弐石九斗一升七合六勺  同年
 坂下下組下嶋百姓五人依願地改之上新定納永引
 一 三石三斗四升六合壱勺  延享二丑
 姫栗村去丑年地押之節本年貢不成分延享二乙丑秋ゟ依願増年貢定納詰   [傍点筆者]
 
 などがある。毎年の改めは「見分」「改」「代官見分」などで引高をしているが、その場合には「検地」とはいっていない。「検地」は、例を多くあげたように、百姓から願出の場合、井水論所、境論所のように論争のある土地の場合、それに家臣、町人の土地所有が引替などで変更のある場合の三つのようである。また貞享元年の柏本村のように惣検地という村全体検地の場合と享保三年坂下村町組百姓八人を対象に検地をする場合のように、村のある部分を行うことがあったようである。
 これらは、いうまでもなく苗木領だけの検地(内検)である。こうしたなかで、享保一四年のものは検地といわず、地押となっている。姫栗村の場合には、延享二年(一七四五、享保一八年より一二年後)に享保一八年の未確定分をとりあげている。同年の地押奉行らについて、陶山丈左衛門、曽我郷右衛門、宮地五右衛門、小木曽藤右衛門の外に竿、縄、ひかえ物人足三人で、同年三月七日に出発したという(高山村・庄屋日記)。同村全体の地押であったろう。
 検地(苗木領だけだから内検の意)といい、地押しといっているが、具体的に違いがあるのだろうか。これについて神山新右衛門の「御領分地押之儀 右郡孫大夫様へ申上候て 御挨拶之儀」がある。
 
 一 孫大夫様へ参上 御用人加藤平治殿ヲ以 申上候は和泉守(苗木領)領分 多年之干損 水損、川欠、先年(享保三年)地震之後 井水道違申候場も有之旁ニて百姓持内納り等迨難儀候所も有之候 其上 年久敷改不仕ニ付 所ニ寄 改出シ可有之儀も可有御座候 然は田地高下年貢之高下も有之候ニ付 内改仕 百姓共難儀之処も 改救 又は田地之増候処も有之候ハバ吟味之上相応ニ取斗ひも申付度ニ付て 先年 駒木根肥後(昌方)守様 久松大和(定持)守様へ年寄を以御内意承申候処「検地縄入之儀は曽て御手前ニテ難成候共 地押之儀は不苦候 不及御届ニも候之由趣ニ御挨拶ニ候」……以下略……
 
 さきにあげた「検地」「地押」の例と、この挨拶状の意を比較して検討してみると、
(1)「発方及び定納、免引覚」では、貞享元年柏本村惣検地以来、享保一三年の日比野村の家臣田地旱損、坂下村百姓伊助の場合まで「検地」となっていて、享保一四年の田嶋村、同一七年坂下村、同一八年姫栗村の場合は「地押之上」となっている。
 ところが内容には、一向に差異はない。地押という言葉を、享保一四年に使いはじめたことは、この挨拶状と関係がありそうである。検地は御手前で勝手にやってはいけないが、地押しは苦しからず、公儀に届けなくてもよいと、いうのだから、この挨拶状以後地押としたのであろう。
(2)それでは、今まで「検地」と平気で使っていたのを、「地押」にし、公儀に伺いをたてなければならなかったか。この事は「発方及定納、免引覚」の文面をみると、前述のように、検地、地押を実施した場合は、
 ○百姓願出
 ○井水論、境論などの争論場所
 ○家臣、町人の土地引替
 などである。土地引替は別として、百姓から申出によっている。こうした「申出」「願出」という筋道で実施してきたものを、神山挨拶状にある地押実施の理由「多年の干損、水損、川欠、先年地震の後、井水道違申候場もこれあり、…中略…しかるは、田地高下年貢の高下もこれあり候に付、内改つかまつり、百姓共難儀の処も、改救い、又は田地の増候処も、これあり候はば、吟味の上相応に取斗ひ申付度に付…略」のように、百姓からの願い出でなく、土地改めをして、苗木遠山家の財政上から、年貢を重くするには、百姓の反村も考えられるから、あらかじめ、幕府から何か指示を受けておく必要があったのであろう。この事について同挨拶状の中に「万一不案内の者 百姓方より心得ちがい候様に申し後日に難しく相聞え候へば かえって無念の儀に候…略」とあるところからも、うかがえる。
 百姓の願出でなく、支配側の必要から領内をある年限で地押をするために、百姓の反対を抑える手をあらかじめ、とっておくことを必要としていたようである。しかし文中にあるように、田地高下年貢の高下もこれありと考え、そのための百姓の難儀を救う一面も、事実あった。引免覚の一例にあげたように、享保一四年地押の田嶋村[加茂郡白川町]の中で反歩違いで多いのを、享保一九年(一七三四)に永引にしたり、上地村四石余引免したりしている。
 こうして幕府の指示を得たのであるが、領内一円に地押がなされたかどうか、はっきりしない。苗木領全体からみると、享保一七年(一七三二)には、五〇〇石上知を命ぜられ、苗木遠山家財政にマイナス要因が附加された頃で、免を二・三分増上を享保一九寅一一月に仰付けている(高山村庄屋日記)。