馬場三郎右衛門を除く七名が尾張徳川家の給人になったが、その後に山村甚兵衛、千村平右衛門以外の五給人は名古屋へ出て、尾張領蔵前取になってしまい、その分が尾張蔵入地になった。その後、明治維新まで山村方(木曽方)、千村方(久々利方)、尾張方(御蔵入り地)、馬場旗本方(釜戸方)の四知行地の入相としてつづいた。これら四知行地のうち、木曽方は天和三年(一六八三)の検地帳、蔵入分は正保五年(一六四八)(寛政四年十月改)検地名寄帳、久々利方は享保一八年(一七三三)の名寄帳によって、以下考察をすすめてみよう。
茄子川村は恵那地域では、大村に属し、太閤検の村高は一三六八石〇六となっている。正保五年(一六四八)蔵入分検地名寄帳では御役高として一三七二石〇六として、太閤検より四石増しとなっている。この正保検地帳によって、四支配別(蔵入、木曽方、久々利方、釜戸方)に村高、田畑反別、分米合計(実際の年貢対象高)をまとめると、Ⅱ-17表のようになる。
Ⅱ-17 茄子川村四知行別村高・反別・分米
Ⅱ-17表で気のつくことは村高(役高)と分米合計(年貢対象になる高)の間に大きな差があり、いずれも後者が少なくなっていることである。茄子川村は表向きは一三〇〇余石の村であるが、検地による実際の年貢対象は一〇〇〇石を少しきる村であったことを示している。参考として示した享和元年(一八〇一)の釜戸方以外の有高と分米合計を比較しても判るように、この分米合計の高が、だいたい幕末まで茄子川村の所務高(年貢対象)として生きつづけたわけである。
このことを個人別として、傅左衛門(蔵入方、諏訪の前の百姓)でみると
一高拾四石五斗 傅左衛門
ぶくに田
一 下田三畝廿壱歩 三斗七升
同所井預
一 同 四畝廿四歩 四斗八升
山ノ田
一 同 七畝拾五歩 七斗五升
角田
一 中田七畝廿歩 九斗四升八合
同所
一 下田壱反八畝三歩 壱石八斗壱升
か志う原
一 同 五畝三歩 五斗壱升
同所
一 同 弐畝拾五歩 弐斗弐升五合
山ノ神
一 同 弐拾壱歩 六升三合
か志ゆう原
一 同 弐畝三歩 壱斗八升九合
赤よき今赤はね
一 同壱反三畝廿壱歩 壱石三斗七升
同所
一 同壱反拾弐歩 壱石四升
同所
一 同壱反九歩 壱石三升
山ばた
一 下畑壱畝歩 八升
かやの木
一 同拾弐歩 三升弐合
同所
一 同八畝拾弐歩 六斗七升弐合
ぶくにばた
一 中畑弐畝拾歩 弐斗三升六合
田畑合壱町七畝弐歩
合米合拾石六斗五升五合
無高目安一三六壱
一 米三升 見取
こ野
下田弐畝歩
高は一四石五斗であるが、反別合計は一町七畝余で、分米計は一〇石六斗五升五合となっていて、高より三石八斗四升五合だけ、分米計は少なくなっている。
[参考]
正保五年子二月十一日の茄子川村田畑検地名寄帳の役人名は次のようになっている。
奉行三人
山村清兵衛 馬場権助 三尾左京
他に
山村内 河合長右衛門
千村内 竹内五郎兵衛
千村内 酒井市兵衛
錦織人 村井孫右衛門