茄子川村の知行区分

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茄子川村内の平均分米は、蔵入分六・一石、木曽方約一〇、五石、久々利方約七・八石(山村清兵衛渡しを除く)となり、平均分米の三者間差異は比較的大きい。このことは釜戸方(馬場氏、旗本領)を含めて、四知行地の分布とも関係がある。
 この四者の茄子川村内における知行地は、どのように分布していたかを考えてみたい。明治三年(一八七〇)又は同四年に提出された明細帳の附図の「美濃国恵那郡茄子川村内往還図」に記入されている往還掃除の分担は、笠松県九丁二間半、名古屋藩五丁五九間、惣山(村方)一八間半(入会掃除場であろう)となっていて、往還略図Ⅱ-20にその分布区域が記入されている。
 笠松県は江戸時代の木曽方、久々利方、釜戸方を示し、名古屋藩とは蔵入分を示し、掃除区分も入りくんでいる。
 このことは四知行地が入りくんでいることを意味する。単純に字別でわけるというようなものではなく、それぞれ所属する百姓も、その田畑も入りくんでいる(正家村も同様である)。
 知行田畑の入りくみについては、年代は不明であるが、「茄子川村の立合絵図」がある。この絵図は中央が損じてしまっているが、知行所別に村役人名も記入されており信用できるものであろう。
 これの下新井地域を写したのがⅡ-21図である。これによると

Ⅱ-20 茄子川村中山道掃除分担図(略図)


Ⅱ-21 茄子川村下新井付近の絵図

 (1)給人である木曽方、久々利方を含めて尾張領田と旗本である馬場藤十郎知行田を色別にしてあらわしていること
 (2)入りくみが複雑なところは「田畑入組」として、色別がしてないこと
の二つのことが分かる。
 このことは、下洗井なら下洗井という同じ小字の中に尾張関係分と旗本馬場氏関係分(釜戸方)が入りくんでいることを示す。しかし尾張関係田地では、それが尾張蔵入方か、木曽方久々利方かとなると、その区別は、この図からは分からない。
 そこで、検地帳にもどって考察してみると、蔵入分である正保五年(一六四八)の検地帳は百姓名が字別になっている(Ⅱ-19表)。それをたどると、蔵入分(尾張方)の百姓は、現、勝家付近から、北へ川にそって下り、坂本、中切、下洗井と茄子川村のどちらかといえば東側に多かったと推察される。特に下洗井地区は大部分が蔵入分であったろう。
 木曽方(山村方)の天和三年の検地の奥書には「右者茄子川村之内 木曽方三百五拾石内検地庄屋小百姓案内銘々田畑地目共ニ相改候所 仍如件 天和三癸亥年十一月十五日 外に一反二畝五歩 高一斗七升釜戸越米」と書かれている。検地帳には、田、畑、新田、新畑、屋敷にわけて、地名、地位、反別、分米が書かれているが、二三名の百姓の字別は、蔵入分(尾張方)のように記入されていない。
 そこで、一筆ごとの田畑についている字名(地名)をひろいあげ、蔵入分についても同様に分かる分をひろいあげ、これを字地図に入れてみると、Ⅱ-22表のようになる。木曽方と蔵入方(尾張方)の二つであるが、入りくんでいることをみることができる。

Ⅱ-22 茄子川村小字名などの地名で尾張方・木曽方の混在を見る図(坂本・熊崎織三郎氏よりの聞きがき)


Ⅱ-23 木曽方・尾張方田地所在略図

 さらに、狭い範囲の地名について、源長寺の南、西諏訪の道ぞいの「上げ志ろ」では 木曽方百姓の作十郎、庄三郎、四郎右衛門などの田、約四反三畝歩あるが、この同じ場所に尾張方分がある(Ⅱ-23図)。
 「上げ志ろ」より北で野田川の東側の「一町田」には、木曽方の田が五筆(一反余)と尾張方の田が入りくみ、坂本、野田の街道ぞいの「はし渡」や、この近くの「志水出」も木曽方、尾張方が入りくんでいる。
 以上、木曽方、尾張方の二知行所分を中心に考えてきた。久々利方分は、どこに多いかよく分からないが、庄屋の所在地などから推定すると、鯉ケ平、広久手方面に多かったと思われる。