阿木村・飯沼村の内検

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寛永一五年(一六三八)に松平乗壽が浜松へ移封され、丹羽氏信が岩村城に入ってから、五年後の寛永二〇年(一六四三)に新領主の丹羽氏は阿木村の検地を行っている。
 青野村年代記(市史・中巻別編)はこれについて「寛永二十癸未 阿木村ニ御検地入候節 正月二十五日青野村にも御検地入高〆三拾弐石三斗壱升七合四勺ト成 御検地御奉行 丹羽三郎左衛門様 樋口平左エ門様、林杢右衛門様」と記している。ついで翌正保元年(一六四四)飯沼村の検地を実施している。
 この検地の奥書の年月日、人名は「正保元甲申年三月八日 藤村 助兵衛 印 同村 三右衛門 印 中野村 大蔵 印」とあってから、「丹羽式部少輔内 西山八左衛門 印」とある[三右衛門は加納屋のこと]。
 このことから、飯沼村の検地が正保元年の三月上旬に終了したこと、藤村、中野村の有力百姓が飯沼村の検地について、何らかの役割を果たしていることがわかる。
 この正保元年より、五年後の慶安二年(一六四九)には、飯沼村枝郷大野村の検地が行なわれている。それをまとめた「大野村内検地帳」の奥書には、「慶安二年二月廿四日 丹羽式部少輔内 西山八左衛門 花押 (代官) 岩村町 人与兵衛」とあって、飯沼村本郷同様に岩村町人 与兵衛が枝村大野村の検地に関係している。
 枝村大野村には、この慶安二年より一一年後の万治三年(一六六〇)に「飯妻村之内大野村本田検地帳」がある。
 「万治三年子、三月十二日」の日付とともに四名の検地役人が署名印をしているが、その中に当時の村奉行梅村七郎右衛門がいる。この検地帳が、文化元年(一八〇四)まで枝村大野村の基本帳として使用されている。
 これについて、「万治三年検地帳 文化六年改之 大野村本田検地内検」の中に次のように書かれている。
 「当村御検地内使帳 万治三年ゟ(より)年来ニ罷成候ニ付 訳地譲地等 名前致混雑候故有来候 帳面下ケ札萬事相改書置惣役 幷庄右衛門立合 古帳ニ引合致吟味候処相違無御座候」として、次に検地田畑 名請人をあげ、終りに次のように書かれている。
 
 右者百五拾壱年以前万治三年御検地帳面写内使帳ニテ高訳幷ニ譲地等小訳名前下紙ニテ済来リ候年来ニ罷成混雑致候ニ付 今度古帳ニ通新帳改申候処村役人幷ニ庄右衛門立合改申候処 少も相違無御座候以上
    文化六年己巳年十一月
           大野村 庄屋 重吉
               組頭 六右衛門
              百姓代 庄蔵
               立合 庄右衛門