寛永二〇年阿木村検地

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「寛永弐拾年 未ノ二月二日 阿木村検地帳幷永川帳写」と表記する検地帳が阿木村本多家に保存されている。村内の小村別に地名、地位、反別、高(分米)、名請人が書かれている。
 名請人について大部分が張紙がされて新しい請人になっていること、小村別に竹べらがそう入されていて、使い易くしてあることなどから、この検地帳は長年にわたって使用された村役人の控帳と考えられる。

 

の形式で、小村別に高合計、地位別反別、石盛が書かれ、その後に検地役人名、年月日などが書かれている。
 それをまとめると、次のようである。
・検地役人、黒田、見沢、野田、赤坂、子皿田、それに加狭(かばさみ)は村瀬与三右衛門以下二名が行い、寺領、本条は、丹羽三郎左衛門以下の二名が行なった。
・後者のグループが、先にあげたように、阿木村本郷を正月二四日にまとめて、翌二五日には枝村青野村へ検地入りをしていることがわかる。
・小村別のうち、年月日、惣高の内として記入されているのは、寺領、本条のみである。
・阿木村には、ここにあげた小村の他に、真原(さなはら)、大根木、宮田、野田、久須田、田中、山野田など七つの小村があるが、本多家蔵の検地帳には出ていない。おそらく、もう一冊にまとめられていたのであろう。

Ⅱ-24 寛永二〇年阿木村検地帳より検地年月日、検地役人名

このことは、阿木村庄屋は常に二名であったことと関連して、一六の小村(黒田、見沢、野内、赤坂、子皿田、寺領本条、藤上、かばさ見、八屋砥と大根木、宮田、野田、久須田、田中、山野田)にわけて管理していたという推定がなりたつ。
 寛永二〇年に検地を行い、土地、貢租などの基本を定めたが、それより六年後の慶安二年(一六四九)に村奉行などによる手直しが実施されている。
 それは本城で蔵屋敷分として、上畑一反余高一石六斗余を引く、八屋砥で下田に反別ちがいがあって五畝余引いたことなどである。共に岩村領村奉行梅村七郎右衛門らが行っている。
 この慶安二年の手直しについて、枝村青野村には重大なことがあった。青野年代記(市史・中巻別編)の慶安二己丑年によれば
 
 阿木村分青野村も阿木村同高ニ成候得は 御米を米九俵弐斗出シ候様ニと割掛候ニ付諸共困窮ニ相成候儀以後之例ニモ成可申儀迷惑故候ニ付 御代官西山八左衛門様 村奉行梅村七郎右衛門様 前田清兵衛様江 青野村ハ私祖父弥左衛門切起申候新田ニテ只今迄一切掛物諸役無御座候所 此度阿木村ゟ御来送米九俵弐斗出シ候様ニと割掛被申迷惑ニ奉存候 只今迠之通一切諸役掛リ物御除キ被下置候様ニと 利右衛門(青野村組頭)委細御願申上候得者(ハ) 早速被分ケ聞テ 阿木村ゟ水帳御引分ケ被下 阿木村枝郷新田分一切諸役御免ニ被仰付候間 此度之九俵弐斗も出シ申間敷旨願之通被仰付難有奉存候
 
 とあって、この年から青野村は新田年貢以外の諸役、諸掛の負担の免除を確認し、年貢免状も阿木村より引分けて別のものになっている。
 こうみてくると、阿木村については、寛永二〇年から慶安二年の間に、以後江戸時代を通しての土地制度の基ができたものと考えられる。
 前記のように、現存阿木村検地帳(寛永二〇年のもの)は、全村でなく、黒田、見沢、野内、赤坂、子皿田、寺領、本条、藤上、加狭、八屋道(八屋砥)の一〇小村分であるから、阿木全村の様子はわからないが、この検地帳写に限ってみると、Ⅱ-25表のようである。

Ⅱ-25 寛永二〇年 阿木村検地帳にみる個人高・字名など


 


Ⅱ-26 加狭 新右衛門の田畑について(寛永検地帳) (△印には家あり)


Ⅱ-27 黒田 喜蔵分田畑(寛永検地帳)

・百姓数(名請人数)  一三九名(同一人が二回以上でていて正確とはいえない)元禄一六年阿木村差出帳~全村~では一九四名
・一三九名の小村、反別、高(分米)はⅡ-25表のようである。当然ながら、その名請人の田畑は、居住の小村のみとは限らない。
 その例をⅡ-25表からあげると、
 41番の宮田の五助が八屋砥に、19番川上村の久市が小皿田に田畑がある。
 このように居住小村以外に田畑のある名請人は分かる者だけで八〇余名となっている。
これらの中で、川上村居住の百姓で小皿田の田畑名請人が七名いる。(19番久市、100番彦兵衛、101番彦市、113番孫十、114番孫蔵、115番孫作、126番弥蔵)
・中津川村貞享検地帳(検水帳)には「○内百姓」をもつ者が、二〇余名あったが、この阿木村寛永検地帳には、133番与市、37番久作、135番山伏屋敷、136番弥十と数が少ない。その記載例は、次のようである。

水没する青野地区

  藤上弐間三間家有
   上畑四畝弐拾歩
   高四斗六升六合六夕七才
         左右衛門内与市屋敷

 左右衛門内の与市は、この居宅のある上畑以外には、検地帳に田畑が自分名でも、左右衛門内の名前でも出て来ない左右衛門はⅡ-25表では64番にあるが、反別三反余、高三石二斗九升余の百姓(本多家検地帳のみの記載)である。
 136番加狭新右衛門内の弥十は、反別計一反四畝一九歩、高一石四斗六升三合三勺四才で、上畑ばかり三筆で、次のように記載されている。
  ふじあげ弐間四間家有
             かばさミ新右衛門内
  上畑五畝拾八歩
  高五斗六升        弥十

・一方、弥十を隷属させている加狭の新右衛門は(Ⅱ-25表69番)、この検地帳では第一の高持百姓で、反別計三町四反一畝余、高三七石五斗七升五合余を名請けしている(市史中巻別編)。Ⅱ-26表に示すように、加狭の全田と弐間五間の空家、その他に三軒を所有している。
・このように小村全部の田畑を一人占めしているのに黒田の喜蔵がいる(市史中巻別編)。(Ⅱ-27表)三九筆、三町六反八畝高三六石九斗三升五合三勺三才である。(Ⅱ-25表7番)
・小皿田に「寄合作」(Ⅱ-25表127番)というのがある。
   はしごだ
   中田七畝拾歩    新十分
      高八斗八升     よりやい

 となっている。「寄合作」の実態は判らないが、新十が出村したのか、断絶したのか、とにかく欠所となって、小村で協同作したのであろう。
 本多家検地帳分の総高は七〇四石八一七四七で、これは阿木村高一七三八石五九四七九(元禄一六年差出帳)の約四〇・五%であるから、阿木村全体の個人別高を階層別にみることはできないが、この検地帳のみでみると、Ⅱ-28表のようになる。
 傾向としては、中津川村、茄子川村同様に、三〇石以上の大高持、一〇石代の高持、一石以下の小高持百姓の三階層になる。