享保七寅検地

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大給分家松平氏が岩村城主になって、二代目松平乗賢(能登守)は、岩村城へ初入城してから、三年後の享保五年(一七二〇)一一月に「村ゟ(より)新田畑切起候わけ御注進」の触を出している。この内容は、元禄一五年以来(丹羽氏にかわって、松平氏岩村入城後)の新田畑について吟味して書上げ提出せよ、というものであった。
 松平氏は、ついで再度、次のような触状を出して、この書上げの徹底化をはかっている。

Ⅱ-28 寛永二〇年検地帳にみる百姓高別分布

元禄十五午年御領知と成以後村村ニテ 新田畑切起仕候ヘ共不申立村も有之様ニ相聞候ヘバ 其分心得違ニテ可有之存候 尤新田畑切起候段書付を以申立候村も有之 其分ハ吟味之上御年貢上納為仕候バ併其以後之起添候場有之様ニ相聞候ヘ共不申立候ヘバ 是又心得違と存候テ 村切ニ委細を吟味□□□之通 書付来丑正月晦日迠支配御代官迠可差出御事(青野鷹見家文書)
 
 元禄一五年(一七〇二)に領主となってから切起した田畑について書き上げて、提出している村もあるが、それをしていない村があると聞くが、これは大変けしからんことであり、吟味していないのも心得違いであるから吟味して、享保六年(一七二一)の正月晦日までにかならず提出せよ、という触状である。
 廣岡新田村では「見取所改帳」に
 
 別無之付テ此度相改候処 如此候以上
 享保六辛丑年八月
         竿取 平野弥三郎
         〃  神田善□平
        下目付 鈴木忠兵衛
         手代 向井理左衛門
            市川与左衛門
            小野間半左衛門
            大山文右衛門
 
 として、田一反十三歩、畑一反三歩の改めを受けている。その後、この改場所は大縄場として、広岡新田関係に出てくる。しかし、享保六年正月晦日までに提出せよ、は守られなかったようで、青野村では、享保六年の暮に吟味して書上げている。だから書上げ提出が完了したと考えられる翌享保七寅年に実地調査、つまり新田畑の検地となっている。
 これについて、青野村年代記は
 
 去年御改書上候新田畑二月中旬ゟ(より)御領中御検地二手ニテ御出被成候 当村御検地ハ四月四日、
     下田中下畑壱反三畝八歩
     高壱石四升八合目御免定壱ツ五分
     納米壱斗五升七合
 当寅暮ゟ(より)初テ出し申し候
 
と記しており、岩村領を二手にわけて、二月より、元禄一五年以後の新田畑検地を行ったようである。青野村が享保七年四月四日であるから、その前後(今までの例だと前が多い)に阿木村を実施したと推定される。
 広岡新田村は「阿木村枝郷 廣岡村新田畑検地帳」が現存する。それによれば
 
 上
 中畑〆弐町四畝弐拾五歩
 下
  此分米拾弐石八斗三升六合七勺
 合田畑弐町八反壱畝弐拾五歩
 合分米弐拾石九斗五升五合四勺
 右之通新田畑反歩相改候処如斯候以上
        竿取 瀧澤又五郎 印
           -以下略-
 享保七壬寅年五月
 
 とあって、広岡新田は五月に検地されている。飯沼村には「享保七壬寅五月 飯沼村新田畑検地帳」があって、同じく五月となっている。検地役人も竿取 瀧沢又五郎以下であるから、四月に阿木村枝郷青野村、五月に広岡新田、飯沼村などを検地をしたことがわかる。
 この検地によって、はっきりした新田畑は「寅新田」と呼ばれ、幕末まで各種の年貢関係文書に出てくる。この寅新田以後は、大きな検地はない。阿木村、飯沼村などの田畑については、この寅新田までの各検地によってととのえられた。
 本田畑(寛永二〇、正保元、両年の検地)、古新田、切起新田、下新田(延宝七年検地)、寅新田(享保七年検地)、それに見取田畑の大縄場の六つに分けられるようである。

Ⅱ-29 廣岡新田 享保七年 寅検地帳