正保元年飯妻村検地帳

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阿木村より一年後の正保元年(一六四四)飯妻村(飯沼村)の検地では、太閤検の場合より、不足してしまった。それについて、どう処理したかを第一にとりあげてみる。
 太閤検地では飯沼村は四五九石八八となっている。この中より、枝村大野村分九二石二斗を差引くと、飯沼村本郷分は三六七石六八なければならない。
 ところが、この検地帳に記されている地位別の反別と石盛(Ⅱ-30表)から分米を集計すると、惣高は二八四石三八四九にしかならず、八〇石余の不足となる(市史中巻別編)。

Ⅱ-30 正保元年 飯妻村検地帳による地位別反別と石盛

 そこで不足分を加算して三六七石六八に合一するよう操作がなされている。
 この検地では、このことについて「惣高二百八拾四石三斗八升四合九勺 右之高 御前帳之高ニ不足故 高拾石ニ付弐石九斗宛わりかける也 わりかけ 高合三百六拾七石六斗八升 飯妻村 正保元甲申年三月八日……略」となっていて、一〇石に付二石九斗を、Ⅱ-30表に示す石盛以上に割りかけがなされている。では何故、このように不足したのか、広岡新田に伝えられている元亀二年(一五七一)の大山崩、慶長一七年(一六一二)頃の不作つづきといった天災のためか、元亀元年(一五七〇)以後の戦乱によるものなのか、わからない。
 いずれにしても、一〇石に付二石九斗が、検地の実際面より増大しているわけである。正保元年(一六四四)より一七年後の寛文元年丑八月の「飯沼村御検地帳より書出高帳」も次のように示している。
 
  上田 壱反ニ付 高壱石八斗六合
  中田  〃   高壱石五斗四升八合
  下田  〃   高壱石弐斗九升
  下々田 〃   高壱石参斗二合
  上畑  〃   高七斗七升四合
  中畑 壱反ニ付 高五斗一升六合
  下畑  〃   高三斗八升七合
  御前帳高不足御座候故有高ニ成わけ右通
   寛文元年丑ノ八月 日
            吉村太郎左衛門 印
 
 これをみると、上田石盛は一石四斗が検地帳の割合としては基準であるにかかわらず、御前帳高に対して不足であるため、「壱反ニ付」として上田では「壱石八斗六合」としている。
 一般に寛文期までの領主の内検は、表高より多いといわれているが、飯沼村の場合は 逆に減少しているわけである。
 Ⅱ-31表は上に正保元年の検地帳(一〇石について二石九斗宛の割りかけがつかないもの)、下に寛文元年の検地帳(上田一反につき一石八斗六石のわりがついたもの)から百姓名とその分米をあげて、比較したものである。
 同一百姓家とはっきりいえる七人の百姓をあげたが、1番の源右衛門をのぞいて、他の六人の百姓(3番二郎作は推定)は増加している。7番太郎兵衛でいえば、正保検地帳では四六石六四三二だったものが、寛文書出高帳では七〇石七五一五となって大きく増加している。
 次に百姓個人別の分米を階層別にしてみると、正保検地帳では四〇石以上が一名、二〇石代が三名、一〇石代が五名、四石以下二名となり、阿木村と比較すると、一石未満はなく、分米は阿木村より大きい傾向となる。寛文元年の書出高帳であげると、七〇石以上をもつ太郎兵衛は、中津川市内の関係村で、江戸前期の検地帳にでてくる中では、中津川村の権兵衛(本陣)より多く最高の分米である。正保検地と同様に一石以下が少なく、平均では、約一二石九斗となる。

Ⅱ-31 正保六年検地帳と寛文元年検地帳の比較(同一家とはっきりしている分のみ)