岩村領(丹羽氏時代)では延宝七年(一六七九)にも阿木村、飯沼村及びその枝郷に対して、検地を実施している。これについて、青野鷹見年代覚書(市史中巻別編)
当未春中新田畑御改被成御検地入申候 青野村江茂二月十六日御検地入 高合三石五斗八升二合ト成
御検地御奉行ニハ 近藤武兵衛様
(以下名前三名あり 略)
とあって、この延宝七年の検地は、新田畑を対象に実施されたことがわかる。
寛永二〇年、正保元年の阿木村、飯沼村の検地では、毎年の「見取」ですましてきた新田畑を、この年に検地をして、反別、石盛、分米などをはっきりさせることが第一目的であった。
阿木村宮田の安藤家年代記には、「延宝七己未 二月古新田御検地入」とあって、延宝七年検地の田畑を「古新田」と呼んだことを示している。
この他に延宝七年検地では、寛文以後、新たに切起したものを「切起新田」といい、同じ切起でも、荒田畑に近い、一段生産力の低いのを「下新田」としている。
このように、古新田、切起新田、下新田の三つについて、検地を実施したのが延宝七年(一六七九)である。飯沼村の延宝七年検地は「飯沼村新田検地帳」(名請人三二名、古新田二〇石四一九三三、切起新田三四石六四七九一)と「飯沼村下新田検地帳」(名請人五名、反別四反二畝二歩、高〇、二四四四石)にまとめられている(市史中巻別編)。