あまり平 一 長七間半 下畑弐拾六歩太郎右エ門 横三間半 此分米五升二合反ニ 六斗成里 |
のようであって、反別の上に、長何間、横何間をあげており(一間未満は尺で示す)こうした書式の検地帳は、中津川市内では、他にあまり例がない。
飯沼村寅新田検地について、大略の内容は次の通り(享保七壬寅年五月飯沼村新田畑検地帳より、吉村家文書)
○筆数~八五筆
○田畑合計反別二町六畝一歩
○合計分米一四石一三四一
○名請人合計三四名
○飯沼村おわち、藤ヶ洞新田畑は別集計
・七筆 ・田畑合計一反八畝四歩
・分米一石三二二勺
・名請人三名
○Ⅱ-32表でみると一筆平均は三畝~一畝、あるいは、それ以下と小さい。
○飯沼村内で、寅新田の位置分布をみると、
池田、葭原、大平、かやの木洞、明ケ田、山の田、下沢と後田川にそった字に多く、それに後田川と飯沼川の合流地点から飯沼川をさかのぼった場所の、市坪、山の神、竹の下、河原、さらにさかのぼって、鞍坪、ちとり場にも若干みられる。
Ⅱ-32 享保七年 飯沼村
○名請人別では、七筆持ちが最高、それでも、反別下田二畝二九歩、下畑一反八畝一三歩である。名請人百姓一人あたり田畑平均は約六畝。(藤ヶ洞分のぞく)。
○元禄十五年の差出帳書上分より、二〇年後の享保七年で、百姓一人あたりで約六畝歩の田畑を切起したり、切添えたりしたわけであり、百姓平均四斗の生産増をしたといえる。
[付記]
阿木、飯沼関係の享保寅新田の高は、次の通り(判明する分のみ)
・阿木村 一一石六六一六〇 免定による
・川上 二石一三六七〇 同右
・青野 一石〇四八〇〇 青野年代記
・広岡 二〇石九五五六〇 明細帳
・飯沼 一四石一三四一〇 寅検地帳